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来るべき「胎動」の予感。 映画『聖なるもの』によせて

映画作りに関わらず、何かを作りたいという衝動的な欲求だけが先行してしまい、当初の目的やテーマを忘れ、やがては方向性を見失い途方にくれる経験談はよく耳にする。しかしその「何かを作りたい」という純粋な初期衝動は本当にピュアで些細なもので、美しい感情なのだと思う。そのありのままの純粋な衝動をものの見事に映画の輪郭に落とし込んで描いて見せてくれるのが、この『聖なるもの』という岩切一空監督の映画だ。

宣伝の文句にもあるように「フェリーニ meets 庵野秀明」とあるだけで何か納得してしまう気持ちもあるのだが、その思いを差し置いてでも観に行く価値のある傑作だと思う。物語は大学の映画サークルに所属する岩切(岩切一空)が不出来な脚本を書き続けるなか、サークルの先輩である橘(縣 豪紀)から「映画作りの禁止」を告げられるところから始まり、映画への祝祭と呪詛の感が入り混じった、《創作行為》への反抗としての物語展開をみせる。
「面白い映画を作りたいならば、まずは自身の生活を映像に記録してみよ」とゴダールが若い学生に言うような台詞を先輩から引用され、岩切は自分にカメラを向けて、映画制作の現場をフェイクドキュメンタリー形式で捉えていく。ここに劇中劇として岩切自身が制作した映画が入り込み、また同時にその映画に対する批評的なメッセージが映り込む。映画作りを通して、映画とは何であり、誰に向けて作られるのか、そしてそこに価値はあるのか、いくつもの問いが浮かび上がるなかで監督である岩切は葛藤し、映画のためであれば全てを投げ打ってでも良いという気持ちと、それをどこかで冷静に見つめ自己批判しているようなレイヤーが重なり合う。実際劇内のナレーションが岩切本人の声ではなく、彼が恋い慕う映画サークルの後輩である小川(小川紗良)の声であることが、その客観性をより強調させる。

物語の入り口として「新歓の怪談」という、新歓合宿時に現れる黒髪の少女に取り憑かれたものは、否応なく映画を撮りたくなり、彼女を被写体に撮った映画は必ず大傑作になる、いわくつきの言説があることを説明される。だが、この話には規則があり、①彼女のために脚本を書くこと。②何があっても撮影を止めないこと。そして③は未だ誰にも解明されていないらしい。冒頭からはこの流れでもってユニークなエンタメ要素としての機能を生かし、笑えるところも多いのだが、監督はインタビューで「3番目のルールを明確にしていないのは、そこをハッキリ提示するような映画にしたくないし、そうじゃない部分で戦いたいという主張でもあります」との答えからもわかるように、3番目のルールというのは、ある意味観客に対して想像の余地を残し、その空白は各々の価値観でもって埋められるのだと思う。かの少女がまるで亡霊のように佇み、言葉を発しず、異様な迫力を持つのは、この映画は言うに及ばず映画史のなかで語られることなく死んでいった「完成しない映画」たちのある種の怨念や妄念を孕んだ存在だからだろう。だからこの映画は執拗なまでに映画を作ることに対しての創作論を随所に散りばめていく。劇中劇の撮影舞台として使用される謎の邸宅の家主、松本(松本まりか)は優しい母親のイメージであり、家自体にも母親の胎内のイメージを重ねているという。実際、この現場では出産のシーンが撮影されていて、松本の部屋はアトリエらしき雰囲気があり、何やら抽象的な絵が描かれたキャンバスが置かれている。ここで松本が岩切に向かって発する「映画は全部、嘘なの?」という台詞が映画全体を包み込む。ドキュメンタリや劇中劇など幾層にも重ねられたレイヤーは、どれが真実でありフィクションであり妄想であるかを問われているかのような気がするが、果たしてそうした境界線のようなものに意味があるのかとも同時に疑問を感じずにはいられない。この映画に限らず、すべての映画が作り物であるかといえば、当然納得し得ない感情が沸き立つ。そんな悲しいことがあって良いのだろうか、そんな虚しいことがあって良いのだろうか。スクリーンの上に唐突に映し出される小川紗良との同衾シーンは、妄想といえば妄想だろうが、そんな簡単な言葉では割り切れない、言い難い圧倒的な存在をそこに感じさせる。わたしは確かに《それ》を観たのだ。そのことだけは確実であり、少女を美しくを捉えるカメラの視線からは心地よいくらいに「何かを作りたい」という純粋でピュアな感情が伝わってくる。それで良いのではないかと強く思う。前作の『花に嵐』から引用すれば「やり方が分かるからやるんじゃないでしょ。やりたいからやるんでしょ。」ーーもっともな言葉だ。

主に新作映画についてのレビューを書いています。