見出し画像

スタート地点としての型をどのように選ぶか -コーチとしての「守破離」についての反省に学ぶ-

昨日、『成人発達理論マスターコース』のコンサルティングセッションに参加した際に「守破離の守を選ぶときのポイント」に関連して質問をする機会をいただいた。

その背景には、

「型」から始めればとにかくそれでいいのか。社会の中では「それはそもそも依拠すべき守なのか」と疑問をむけるべき対象もあるのではないか。

という課題感があったからだ。

3ヶ月ほど前にこんな記事を書いた。

コーチの成長プロセスも守破離と重なるところがある道を辿るというものだ。

わたし自身、自分の体験からも納得感があるものだったが、最近になって、「まてよ」と思うようになってきた。

アカデミックに近い領域にいる筆者が、信頼に値するだけのサンプルをもとに研究をした結果だと捉えているが、たとえばそのサンプルそのものに偏り(もしくは織り込まれた前提)があったとするとどうだろう。

日本であれば今コーチとして仕事をしている人の多くは何らかのコーチングスクールを出ているはずだ。スクールに通わずとも、書籍等を通して「型」を学ぶところがスタート地点になっているだろう。

つまりコーチング業界においては「型から入る」という環境がすでに出来上がってしまっていると言える。

これはわたし自身の受け取り方の浅はかさとも言えるが、「型から入る」という環境がすでにあるにも関わらず、「型から入るのがいいのね」と安易に受け取ってしまっていたのだ。

多くの人が「型から入る」という環境がすでにできているのであれば、その後、型から出るという流れが起こるのは必然とも言えるだろう。

ここに危険な落とし穴がある。

冒頭の言葉に戻ろう。

「型」から始めればとにかくそれでいいのか。

これは、問いというよりも「守」にも選ぶのに適した「守」とそうでない「守」があるのではないかということを前提にした課題感の共有であったが、「守破離」という流れが示されることによってあたかも全ての「守(型)」がよしとされるようなそんな認識を持っていないだろうかという自分自身への反省の念が込められている。

コーチとしての成長のステージの話をしたデイビット・カルターバック氏が真意としてどのようなものを持っていたかは分からないが、数ヶ月前のわたしはプロセスにばかり目が行き「守(型)」の中身には全く意識を向けることができていなかった。

そんな反省をもとにした問いかけに対して講師の鈴木規夫さんと加藤洋平さんから返ってきた「守(型)を選ぶ観点として重要なこと」ことを、次のように理解した。

①世界からのフィードバックにさらされているようなオープンなシステムになっているかどうか
②そのシステムがどのような思想や前提から採用されているか

①については講座内で直接的に回答をもらった(と認識している)もので、②については講座終了後に振り返りをしていてやはり「まてよ」と湧いてきたことだことだ。

2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授は現在、新型コロナウイルスに関する情報を積極的に発信しているが、山中教授のウェブサイトの中にはこんな記述がある。

科学情報の信頼度

私は、科学的な真実は、「神のみぞ知る」、と考えています。
新型コロナウイルスだけでなく、科学一般について、真理(真実)に到達することはまずありません。
私たち科学者は真理(真実)に迫ろうと生涯をかけて努力していますが、いくら頑張っても近づくことが精一杯です。真理(真実)と思ったことが、後で間違いであったことに気づくことを繰り返しています。
その上で、私の個人的意見としては、医学や生物学における情報の信頼度は以下のようになります。

本情報発信では、各情報の根拠を明らかにし、下記の分類のどれにあたるかが判るよう心掛けています。

真理(真実)
>複数のグループが査読を経た論文として公表した結果
>1つの研究グループが査読を経た論文として公表した結果
>査読前の論文
>学術会議(学会や研究会)やメディアに対する発表
>出典が不明の情報

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」より

これは「①世界からのフィードバックにさらされているようなオープンなシステムになっているかどうか」と重なるところがあるだろう。

わたしはアカデミックな世界のものについても一部懐疑的な目を向けているがそれは業界によって論文が公表に至るまでにどの程度の査読がなされるに大きな違いがあるということを知ったためだ。(それぞれの業界では業界の常識があるはずなので、他の業界に別の慣習があることは信じ難いかもしれない)

また、アカデミックな世界の構造上(教授という限られた席を目指すヒエラルキー構造になっているように見える。同時にポジションと地位・権威が強く結びついているようにも見える。全ての人がその影響を受けているとも言えないが)、ときに他の領域もしくは研究者との差別化に重きが置かれることが起こっているのではないかと感じている。

しかし少なくとも「①世界からのフィードバックにさらされているようなオープンなシステム」に近いものになっているのだろう。

コーチングの品質向上と普及に努める世界的な団体であるICF(国際コーチング連盟)でも、資格の更新に必要なコーチに必要な継続的な教育の認定時間を満たすための選択肢としてCCE(継続コーチ専門教育)の認定を受けた講座を受講する以外にも自ら探究や執筆活動を行ったことを申請するという方法がある。(これはあまり知られていないが、与えられたプログラムを受講するのではない探究のプロセスについて個人的にはもっと推奨していきたいと思っている)

探究をしたものをオープンにしていくことは①につながる取り組みとも言えるだろう。

しかしここにも注意点がある。

「世界」というのがどの程度の広がりを指しているかということだ。

起こりがちなのは、「業界」が「世界」になっているという現象だ。

同じ業界の人たちもしくは同業者が専門的な観点で見たときにどのように捉えられるかはもちろん重要だが、たとえば科学的な視点から見たらどうか、倫理的な視点から見たらどうかと言った「業界」ではない視点でも検証がなされているかはよくよく確認しておきたいところだ。

コーチングでもその中身自体をもっとオープンなものにしていこうという動きがあるが、それはコーチングが閉じられたブラックボックスになってしまっていることに対する懸念から来るものだと受け止めている。

守破離というのはわたしたちにプロフェッショナルとしての自分を深めるにあたって次なるステージを分かりやすく指し示してくれている言葉だ。

その上で、「守(型)」として採用するものがどのようなシステム・構造・さらには前提や認識をもとに作られているものなのかには注意を向けることが必要だろう。

残念ながらその「型」がどのような前提から作られ、どのようなシステムで継続してきたか、なぜ今その形をしているのかについて型の提供者からは教えてもらえないことも多い。

思想家の内田樹さんの書いた『日本辺境論』にはこんな話が出てくる。

ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションでません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。「自分はどうしてこのような意見を持つに至ったか」、その自己的閲歴を言えない。自説が今あるようなかたちになるまでの経時的変化を言うことができない。「虎の威を借る狐」には決して「虎」の幼児期や思春期の経験を語ることができない。
(中略)
「虎の威を借る狐」は「虎」の定型的なふるまい方については熟知していますが、「虎」がどうしてそのようなふるまい方をするようになったのか、その歴的経緯も、深層構造も知らない。知る必要があるとさえ考えていない。

内田樹著『日本辺境論』より

選んだ「守(型)」によってはその後長く徒労の道を歩まないといけなくなるかもしれない。

振り返ってみればそれも大事な旅路だったと捉えることになるだろうけれど、人生の時間は限られている。

自分が選ぼうとしている型が、「虎」なのかはたまた「虎の威を借る狐」なのか、それを見極めるリテラシーがわたしたちには求められているのではないだろうか。



成人発達理論マスターコース』は鈴木規夫さんと加藤洋平さんによる全6回のコンサルティングセッションがセットになったstandardコースは既に申し込みが締め切られていますが、成人発達理論実践者の立石慎也さんが18ヶ月間にわたる、学習者同士のダイアローグをパッケージにしたプログラムを開催されます。

じっくりと学びを深めていく中でまた新たな世界が見えてくることが今からとても楽しみです。

数ヶ月後にはここに書いたことも「まてよ」と言っているかもしれません…。


このページをご覧くださってありがとうございます。あなたの心の底にあるものと何かつながることがあれば嬉しいです。言葉と言葉にならないものたちに静かに向き合い続けるために、贈りものは心と体を整えることに役立てさせていただきます。