Dear Teachers
タイ・トラートのフェリー乗り場に停められたバンの中で乗船を待っていると、流れ始めた英語の歌詞がクリアに耳に入ってきた。
どこかで聞いたことがあるような、そうでないような。
いずれにしろ、頭の中で英語が意味に変換されるのとほぼ同時に歌詞の描き出す世界観が広がる。
こんな感覚を前にもどこかで感じたことがあった。
そう思った瞬間、中学生のときの記憶が蘇ってきた。
中学の英語の授業では毎回、始めに英語の歌を歌っていた。
月の始めに先生が新しい歌の英語と日本語の訳を紹介し、一ヶ月間ずっとその歌を歌う。
わたしたちが入学する年に中高一貫・男女共学になったその学校はもともと男子校だったのだが、血気盛んな年頃の生徒たちに少しでも英語そのものと英語の授業に興味を持ってもらおうと工夫していたのだろう。
男女が混ざりむしろ気恥ずかしさの方が増したせいか、わたしたちの学年では英語の歌声は小さかったのだが、わたしはその時間が好きで、小さい声だが歌詞をなぞり、毎月紹介される新しい歌も楽しみにしていた。
勉強はどちらかと言うと好きだったけれど、勉強をすることの先に何か目的を見出していたわけではなかったし、試験の点数や順位に一喜一憂したことを覚えているくらいで、勉強した中身は今ではほとんど覚えていない。
でも、今になって分かる。
学校で学んだことは何だったのか。
先生たちは、何を教えようとしていたのか。
たとえば英語というカテゴリー一つを見てもその世界は果てしなく、中学の3年間で学ぶことができるのはせいぜいそのほんの一部だ。
国語も数学も理科も社会も、世の中でそれらを実際に役立てようと思ったら数年間で学んだことでは到底足りない。
何より現実世界は複雑で、いろいろなことを組み合わせ、状況に応じてものごとを考えていかないといけない。
もちろん、日々の暮らしの中で役立つこともたくさんあるけれど、学校で習った通りの考え方や公式が使えるとは限らない。
そのときそのとき、自分で考えていかないといけない。
世界の変化に合わせて、学び続けないといけない。
より良い未来をつくるために、試行錯誤を続けないといけない。
学校で学んだのはそのために、「楽しく学ぶ姿勢」、「学び続ける姿勢」だったのだ。
学びというのは、教科書に書いてあることを理解することではない。
世界と自分のつながり、他者と自分のつながりを見出すこと。
未知のものを前に思考停止するのではなく、さまざまな知識や経験を組み合わせ、ときに新たなことに挑戦し、世界の行く末を担う主体者の一人になること。
そのための土台を、学校で学んだのだと思う。
それだけではない。
それぞれの先生から、生きる上で大切なことを学んだ。
英語の嶋田先生からは、言葉の奥には「伝えたいメッセージ」があるということを学んだ。
国語の後藤先生からは、ひとつひとつの言葉、そして言葉のつながりに丁寧に向き合うことを学んだ。
数学の北野先生からは、そのときの自分にできることを精一杯、真摯に取り組む姿勢を学んだ。
理科の佐々木先生からは、世界を信頼し世界に笑顔を向けることのパワフルさを学んだ。
社会の柴田先生からは、好きなものに情熱を持つことが人生を豊かに楽しいものにするのだということを学んだ。
他にも、それぞれの教科の先生から、それぞれが人生において大切にしていることを学んでいたのだと、今になって思う。
世界を旅していると、日々いろいろなことが起こる。
それでも世界がステキな場所だと思えるのはきっと、先生たちから「生きる姿勢」のようなものを学んだからなのだと思う。
今、わたしにとって世界が先生だ。
どこにいっても学びがあり。
どこまでいっても学びは尽きない。
そう思えるのもきっと、学びは楽しいものなのだと教えてもらったからなのだと思う。
先生たち、元気にしていますか?
わたしは今、世界を旅しています。
壮大な世界の中で、自分の無力さ、ちっぽけさに打ちのめされることもあるけれど、それでもこの世界は美しいのだと、日々感じています。
あなたたちが伝えようとしたことの一部かもしれないけれど、
わたしは間違いなく何かを受け取って、生きています。
忙しい毎日の中で志を見失いそうになることがあるかもしれないけれど
そのときは思い出してください。
あなたの灯した小さな光の一つが、
世界のどこかで、だれかを笑顔にしていると。
嶋田先生の最初の英語の授業で習った曲はロッド・スチュワートの「Sailing」という歌だった。
人生という旅を経て、この歌詞の意味をより深く味わえるようになったことを、タイの小さな島で感じている。