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成瀬巳喜男の映画、《さりげない優しさ》について

最近、成瀬巳喜男の映画を観るようにしている。年代はばらばらで、気が向いたものから観ている。成瀬はその生涯で89本の映画を撮ったそうで、すべて観ようと思えばそれなりに骨が折れる。
最近観たものは『めし』『乱れ雲』『乱れる』『秋立ちぬ』『浮雲』、成瀬巳喜男の映画を観たあとにいつも思うのは、あとに残る感情を言語化しづらい、ということ。作家性とも言い換えられる「違和感」がなく、ごく自然にその語りに観客を取りこんでしまう気がする。

小津の『秋日和』で、おじさんたちからどんなに失礼なことを言われてもにこにこと聞いて頷いている原節子のすがたを観たばかりだったので、『めし』では、夫へのまなざしのつめたさがあまりにも生々しくてぞっとする。
夫は家のことには無頓着・無関心なのに、とつぜん家にやってきた世間知らずの姪のことはひたすら甘やかし、愛想を尽かした妻は単身東京へと帰省してしまう。妻は帰省中に夫に宛てた手紙を書くものの、それは最後まで投函されず、結局は破り捨てられる。手紙の内容は夫にも観客にも決して知らされない。

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手紙を破り、汽車の窓から捨てるシーン。
前にもこんなショットを観たことがあるような気がするけれど、それがいったいどの映画だったのか、本当に観たことがあるのかはよくわからない。こころの裡をしたためた言葉が空中でほどけていくようにはためき、風になびかれ、塵になってゆくのは映画的すぎるくらいに映画的で、まず日常でこんな景色をみることはないはずだから、見覚えがあるのなら何かの映像なのだとは思うけれど。とにかく、わたしは、得体の知れないなつかしさを含んだ美しいこのシーンにほとんど泣きそうになってしまった。

ところで、『めし』は林芙美子の原作を映画化したものであるけれど、スタッフクレジットに「監修・川端康成」と出てくる、このことは金井美恵子のエセーでも触れられていた。

つい最近、私が、これは、いったい何なのだろう?と首をひねったのは三百人劇場で上映される成瀬巳喜男レトロスペクティヴの『めし』を久しぶりに見たからです。
 林芙美子の原作を田中澄江と井出俊郎が脚色したこの映画のタイトルには、他のスタッフと一緒に脚本の二名の名前が出た後で、監督と同じ一画面に一人で、監修・川端康成、と映し出されます。
 川端は、いったいこの映画の何を監修したというのか?

——金井美恵子 / 『女であること』その他(『夜になっても遊びつづけろ』所収)

確かに不思議だったので調べたところ、原作小説『めし』は未完で、結末が決まっていなかったため川端康成が監修・アレンジしたということのよう。
この映画の結末について——《その男のそばに寄り添って、その男と一緒に幸福を求めながら生きていくことが、そのことが、私の本当の幸福なのかもしれない。幸福とは、女の幸福とは、そんなものではないだろうか。》すこし「きれい」にまとめすぎる、という印象を受けたのだけれど、どうやら会社の偉い人の意向であるらしく、脚本家2人と成瀬の方向性では、夫婦は離婚する予定だったようだ。そのことはwikipediaで見つけた。

成瀬映画の全89本中5本しか観ていないため、断定的な言いかたは避けるべきだと思うけれど、(今のところ)成瀬巳喜男の映画に定型的なハッピーエンドは似合わない。

映画監督エドワード・ヤンは、成瀬の映画を次のようにあらわす。

彼を言いあらわす言葉は単純だ——それはさりげない優しさ(generosity)である。

——エドワード・ヤン(大久保清朗 訳) / さりげない優しさという強靭で不可視のスタイル——成瀬巳喜男について
(蓮實重彦・山根貞男 編『成瀬巳喜男の世界へ』所収)

そして、エドワード・ヤンは、《さりげない優しさ》という概念について、『乱れる』のラストシーンを引用しながらつづける。

おおかたの映画では、監督の誰もがヒロインの演技をメロドラマティックに処理して、わたしたちの感情をもてあそぶチャンスとする。正反対に成瀬は、狂おしくあとを追う高峰を立ち止まらせることにした。彼女はたたずむ。その表情は急にやすらかになり、まるで「これが人生なのよ。そして人生はつづけていかなければならないのだわ」と自分に語りかけているかのようだ。成瀬はすみやかに映画を切断し、終わらせてしまう。
 これほどのさりげない優しさはあるだろうか?

——エドワード・ヤン(大久保清朗 訳) / さりげない優しさという強靭で不可視のスタイル——成瀬巳喜男について
(蓮實重彦・山根貞男 編『成瀬巳喜男の世界へ』所収)

generosityは直訳で「寛大さ」、わたしだったらそう訳してしまっただろう。「さりげない優しさ」という訳語はすてきだ。《さりげない優しさ—generosity—寛大さ》と、ゆらめくシニフィアンのあいだにあるシニフィエのなかに成瀬映画の捉えどころのない魔力が隠れている気がする。

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さりげない優しさ、は成瀬映画のいろいろなところに感じられる。観客の感情をむやみに掻き乱しはしないかわりに、醜いものも美しいものも、生も死も、ただ静かに、あるべきものとして配置される。

例えば『秋立ちぬ』の母親。子どもを親戚の家に預けたまま、男と駆け落ちをしてしまう。倫理的に考えればとても醜い行為だと思う。でも、彼女に対して観客がすっきりするような物語上の「罰」はないし、彼女をとりたてて「悪」として描写することもない。そのかわり、もともと存在もしていなかったかのように、忽然と消えてしまう。これが彼女の人生であり、運命だったのだとでもいうように。倫理観も論理も超えて、感情的で唐突だ。

「唐突」という言葉を用いたけれど、この言葉をより適切に言い換えるなら《さりげない優しさ》ということになるのだろう。メロドラマティックに処理されないすべてのドラマは、人生が誰にとっても予測不可能なものであるように、唐突であるはずだ。
《さりげない優しさ》は、観客を感情的に支配することはないけれど、物語そのものに潜む生身の感情を曝けだしてしまう。

『乱れ雲』で女の夫が交通事故に遭い他界することも、その加害者の男と寡婦が惹かれあうことも、みずうみで心中事件を目撃し男への感情が抑えきれなくなることも、道すがら交通事故の現場を通り過ぎるのも、すべては唐突で、そこにあるのは隠しきれない死の匂いと剥き出しの感情だけだ。

成瀬巳喜男の映画は、作家性の主張もなくとても静かだ。その静けさゆえに、運命の暴力とそれに翻弄される人間の感情をなまなましく曝してしまう。それはまるで、何も伝えないまま破り捨てられた手紙のようでもある。そこにはたしかに感情があって、ドラマがあり、得体の知れない美しさが息づいていたのだった。

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