3つの掌篇 Ⅲ.Friday Night Fantasy
Ⅲ.Friday Night Fantasy
刑事さん、まずは慌てずゆっくりしたらどうですかね?
週末に僕みたいな厄介な人間を取り調べるなんて事は早く済ませたい仕事だとは思いますが、慌てずとも今の世の中、時間が解決してくれる些細な問題です。どうせですから取り調べの時間は世間話でもして潰すという事を、僕としては提案したいですね。
ああそれ、僕の財布ですね。
今のご時世、現金なんて珍しいものを久々に見ましたか?そりゃそうですよね、今の時代コンビニも地下鉄もバスも99%がモバイルかカード式電子マネーでのネット決済ですし、無理もありません。
やはり利便性と資本主義の力学?ってヤツでしょうか、便利なものが出来てしまうと何千年の貨幣の歴史なんてあっという間に絶滅危惧されちゃうんですねえ。現金しか使わない僕なんか、買い物は高級デパートや限られた店ですし、地下鉄やバスが使えないんで現金決済可能なタクシーとか使うハメになって、不便を通り越して迫害されてるんじゃないかと思いますよ。
えっと、僕に掛けられてる正確な嫌疑はなんでしたっけ?
ああ、任意同行だったから嫌疑とまではいかない?身分証不携帯と職質で身分を明かさなかったらここに居るって事ですね、なるほど。
今のご時世、納税や年金だけじゃなく、給与やプライベートな買い物まで個人特定番号で管理されてますからねえ。
僕が生まれる前の昔話になりますが、導入初期の頃は確かに人権団体やら自称人権派弁護士が騒いだそうですが、やはり経済効率には敵わなかったと聞きますよね。やはり考えうる”最高の情報保護”が使用されたのが大きかった、でしたか、僕も教科書で読みました。
犯罪抑止も格段に上がって、今や刑事さんなんかもエリート中のエリートですからねえ・・・・
あ、これは取り調べられてるからって媚売ってるわけじゃないですよ、年々警察採用者が減ってるのに倍率はどんどん上がるって確か先週のネット討論で出てました。
刑事さんどう見たって若いですから、警察省に入省厳しかったんでしょう?
話を少し戻しますか、結局の所、刑事さんにとっては「身分証を持ってる凶悪犯」より「身分証を持ってない通りすがり」の方が厄介な時代になっちゃったようですね、凶悪犯なら即逮捕であとは検察と裁判所の仕事ですが、僕みたいな名無しを捕まえる法律ってありませんもんね。
不法滞在者?まあ可能性は有るでしょうがそれは入国管理行きで刑事さんの手間は少ないですし、今の日本に外国籍が不法滞在できる余地がどれだけあるのか・・・・
刑事さん、手元のタブレットにメールが届いた様ですよ。
ああ、僕の身元チェックの結果が出ましたか、思ったより早かったですね、もう少し話せると思ったのですが・・・・
おや刑事さん、少し顔色が悪くなったようですね、あと手の平に多少汗をかいてる様子で。
僕が不法入国者じゃないって事は送られてきたデータでわかったと思うんですが・・・・おや返事が無い
じゃあ刑事さんが話す気分になるまで、少し世間話を続けましょうか。
結局、個人情報の完全な統一管理ってヤツは、人間の作った情報管理=暗号化じゃ何時まで経っても国民が認めなかったと僕は思うんですよね。僕は数学なんてものも多少経験が有りまして、
良い暗号は解けない暗号じゃなく、解くのに時間が掛かる暗号で、早く解ける暗号ってのが悪い暗号なんですよ。
つまりは人がどんなに頑張って最新の難解な暗号を作ったってそれは解かれる運命にあると、それじゃ自称人権派弁護士みたいな連中が何時まで経っても個人情報の統一管理を認めないわけです。
でもまあ、個人の遺伝子配列をベースにした通し番号と暗号化コードとは上手い物を思いつきました。
細胞核、プラスミド、父系由来、母系由来、病歴マッピングと解析技術が進んで2000億から3000億通りでしたかね?確か歴史を二回繰り返しても、全ての生まれてきた人類を分類できると言う触れ込みでした。
一卵性の双子でも核の分裂から生まれるまでの発生期間の遺伝子的多様性で分類出来ると言うので、これだけの生物学的データを提示されたら自称人権派弁護士や人権団体の知識じゃ、とても反論できる能力も無いし、世論もすんなり個人情報の統一管理に同意したんでしたね。
しかし遺伝子検査に頼りすぎるってのも考え物ですね、犯罪率が減り警察の規模縮小で、取り調べは刑事さん一人、記録も刑事さんの手持ちのタブレットで自動処理ですか。
さてと、僕の遺伝子簡易検査にはこう出てるはずです。
性別:男
氏名:不明
父:不明
母:不明
出身国:日本
日本国民の100%、(存在自体減ったが)ホームレスですら遺伝子登録してる時代に有り得ない情報ですよね、少なくても小学校や中学校での義務教育中の遺伝子採取のデータが引っかかるはずですし。
まあタネ明しは簡単で、遺伝子を書き換えるベクターで僕の履歴に関する部分を消去してるんですよ。病院のベクター治療なんかでは病歴と治療によるマッピング変異の提出が義務付けられてますが、
治療外、つまり遺伝子の美容整形ってヤツを規制する法律がまだ存在しませんからね。
でも、重要なのはベクターによる種明かしや、小手先の方法論じゃないんです。
遺伝子が、自然や物理法則が生み出した完璧なセキュリティとして完全実名社会を形成するに至りましたけど、セキュリティやシステムが完璧なほど、
真の意味での「誰でもない人間」が存在しうるのでは、と僕は考えるんです。
完璧なセキュリティと過信する故に、システムから外れた存在に対する定義を今の世界は見失いました。過去の世界には例外、世界の外側、アウトサイダーを求め許容する余裕が幾ばくか存在しましたが、
完璧な秩序と効率を求める世界では、それらは完璧な無秩序と成り得ます。
かつて自称人権派弁護士や人権団体が、プライバシー侵害や監視社会と批判していたのは、完全に自分達の想像力と対応能力の無さを世に喧伝してただけだと僕は思いますね。
旧態依然とした世界では、寧ろこれほど完璧な匿名化は不可能で、知識と財力次第でベクターによる遺伝子書き換え以外にも幾らでも履歴を変える手段が有るんですよ。
僕にとっては今の世界はこの上ない理想郷ですよ。
仕事だって、僕みたいな履歴の無い人間を必要とする人が刑事さんの想像より沢山居ますしね。
何よりほら、刑事さんも子供の頃一度は透明人間になりたいと思った事あるでしょ?
自分じゃない人間になりたいって変身願望は大人になっても消えないはずです。
古典的な方法ですが、僕の革靴のかかとの部分、
ここに所持品チェックされないよう、変異用ベクターのアンプルと注射器がありますよ。
今夜お近づきになった印に刑事さんに進呈します、証拠品として保管するか自分で使ってみるかはご自由に。
週末の夜ですし、僕は街の喧騒に戻ります。
by 拓也 ◆mOrYeBoQbw(初出2013.04.18)
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