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【短篇】冬の日

 君は公園のベンチで、飲みかけのコーヒーのボトルを締める。
 読みかけの文庫本はバッグのサイドポケットに、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だ。

 昼下がり、休憩も終わり都市の公園では人も少ない。君は周囲を一瞥してみるが、君に注意を払う人間は誰もいない。
 皆何かの仕事か、あるいは自分自身の何かに没頭してるのだろう、誰もが透明人間でいられるこの場所に落ち着いた気分になる。
 例え、敬虔な信徒であれ異教徒であれ。

 君は二か月前にこの街を訪れた時に、自分が失敗した事を反芻する。まあでも失敗じゃなく心変わりだ、何もやらなかっただけに過ぎない。
 それにしてもこの冬の昼下がり、君はこの街の寒さと騒がしさに辟易する。知ってはいたけど大分寒い所にきてしまったな、そう、声は出さずに口だけを動かしてみる。さっき締めたばかりのコーヒーのボトルに触れてみるが、既に冷めきっていて再び飲もうという気分がすぐに萎えてしまう。

 君は気分を変えるために、バッグから一つの画集を取り出す。売り出されて間もない真新しい印刷の臭いがし、表紙を開くとすぐ、今回街をわざわざ訪れた第一の収穫が目に飛び込む。
―――画家の直筆のサイン―――
 君は画集の中身に進む事なく、そのページをずっと眺め続け、指先で彼の描いたサインペンの筆跡を何度も、何度も追ってみる。
 初めて会った彼は、アトリエの前で待っていた君を含むファン一人一人に懇切丁寧に対応してくれた。君が差し出した新刊画集にサインすると「君が欲しいのはこれだけかい?」と聞き返してくれた。
 画集で見る彼の新作は予想通りにどれも素晴らしいものだと君は感じた。ただ、今君の指が求めていたのは、彼が直接描いたサインペンの筆跡だった。

 満足するまでそのサインをなぞり続け、君は一息つく。
 ああ、前回は諦めたんじゃない、失敗だったんだ。最後のこれが1ピース足りないのだから、そもそも成功するわけないじゃないか。
 そう一つの結論に辿り着いた。
 君はずっと説明出来ずにいた、自分がこれから行おうとする行為の動機と原因を、最後にちゃんと纏めようと、しばらく考え込んだ。

 彼の絵を初めて見た時、ああこれは自分が描きたかった絵だ、出したかった色だし、この線の流れもイメージ通りだ、とそう感じた。
 自分の書き溜めたスケッチや習作、色見本と照らし合わせて、彼の絵を見るとどんどん共通点が見つかっていった。
 彼の使ってるこのモチーフは自分も使おうと資料を集めていたし、この色彩のコントラストはどうだ、自分か彼のどちらかしか、この世界で思いつく事はないだろう、と。

 彼の画壇とメディアでの評価はどんどん上がって行った。
 君にはそれが当然に思えた。何故なら彼が次々出す新作は君が思い描いていたアイディアやイメージと同じだったし、君の予想を上回る事も下回る事もない出来だったのだから。

 しかしながら、彼が表舞台で華々しく活躍する様子を見る度に、君は気落ちして次第に陰鬱な症状が出るようになってきていた。
 それは当然の話で、ほぼ同時か自分が先に思いついていた作品を、ただタイミング良く発表しただけ。能力が同等な、あるいは劣る人間が何故それだけでこんな差が付いてしまうのか?そう反芻する度に、呼吸が苦しくなり指先が震えだすのだった。

 そう、彼は自分の半身であり、彼の方が名声と財産を貯めておく側に過ぎないのだ。
 いずれ近い将来、その貸してる分が自分に戻ってくる。

 二か月前も、そこまで考えを纏めてこの街に降り立ったはずなのに、君は心変わりして目的を達成せずに街を離れた。
 そう、彼が自分の半身である確証が、蜃気楼の様に朧になってしまったからだ。
 しかし今は違う。彼を肉眼で見て、肉声を聞き、
 何より、彼の肉筆の筆跡に、自分の指が触れている。
 これで、”彼だったモノ”の全ては自分が持っている、君は今までにない高揚感を覚えていた。

 日は既に落ち、月も天上に登っている。
 君は公園の街灯の下で、画集をバッグにしまい込んだ。
 画集は大きく、バッグに素直に滑り込まず、皮のケースに包まれた何か他の、硬い荷物に引っかかった。
 君はその皮のケースを取り出し、先に画集をバッグにすっぽり収める。
 そして君は、皮のケースを開けて中身をチェックする。
 ―――オーストリア製オートマチック拳銃・グロッグ32と高殺傷能力の.357SIG弾―――
 君は安全装置と銃身をチェックし、その拳銃が確実に作動する事を確認した。

 そして君は、駅とは反対側の高級住宅街のあるマンションへと歩きだしていた。(完)

拓也 ◆mOrYeBoQbw

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