メメント・モリ短篇集 Ⅱ.アタランテー、あるいはコギト・エルゴ・スム
全てが終わった後、彼女は素足で、彼女の皮膚と見分けのつかないような質感の、白色の沙浜をゆっくり歩き始めた。無人の沙浜で唯一音を響かせる波が彼女の足跡を直ぐに消して行った。
夕陽は既に水平線に沈み、満月が青黒い海面に光を投げかける。潮風は優しく彼女の全身を撫で、陽に焼けた皮膚を冷やし始めていた。
背後を振り向けば、そこは小高い砂丘になっていて、街の明かりは彼女の元まで届く事は無い。石版や粘土板に神話として描かれた巨人の様に、幾つもの丘が連なってるだけだった。
何もかもが彼女が幼少の頃から慣れ親しんだ故郷の一場面、
だが今は、何もかもが全て違うものとして、彼女の全ての感覚に飛び込んできていた。
彼女はその違和感を確認するために、眼を瞑り、肺に日没の大気を精一杯送り込んだ。
そして自分は一人の女で有りながら、同時に歴史に存在した全ての女である事を自覚した。
凄涼たる海岸は、古代トロイアでもフェニキアのタイアでも、カルタゴの海岸でもあり、彼女はそのあらゆる海岸にたたずむ、全ての裸の女だった。
彼女は数日前に、一人の男に引き合わされた。
その男は背が高くがっしりした体つきであったが、外国語混じりの物静かな口調で、何やら『儀式』や『妖術』、あるいは『薔薇園』『翡翠の首飾り』など、意味の解らぬ隠喩で彼女に隠された秘術を説いて行った。
肉体を超越するが、肉体を持ってしか辿り着け得ない領域、彼女は無条件で男の言葉を信じた。
そして全てが終わった今、男の言葉は真実だったと彼女は実感した。
手を伸ばすと、月に照らされた自分の腕と、漆黒の海と、星空だけが視界に入る。もはや彼女が見ていたものは、全ての女の一部であり、全ての海、全ての星空。時間や歴史、空間を隔てている物は、簡単に消し飛ぶ僅かな差異だったと理解した。
彼女を定義する全ては、彼女の行動とそれに伴う感覚だけであり、自分の意思すらまやかしである事に気付いていた。
存在するのは浮き沈みする無意識だけで奥底から湧き上がる感覚に、肉体の全てが支配されてるのだ、と
彼女をこの域に導いた男だったものは、今は傍らで、首に麻縄を巻きつけ横たわっていた。彼が最初から望んでいた通りに―――
彼女は、かつて男だったその物体を見て、悲しみも虚しさも抱く事は一切無かった。
彼女が全ての女であるのと同じく、男もまた全ての男であり、男の残滓は彼女の皮膚の内側や体内に何度も刻み込まれて、これからも繰り返されるのが解っていた。
肉体すら脱ぎ捨てたかった。いや、既に肉体は半ば脱ぎ捨てられていた、
コギト・エルゴ・スム―――我思う、故に我在り
彼女は最早一切の思考を捨てていたが、男と女の感覚が、彼女の指先から髪の先端までを満たし、深淵の海岸、世界の果ての風景に、彼女の存在を確かに浮かび上がらせていた。
拓也◆mOrYeBoQbw(初出2015.12.27)
自作の創作、コラム、エッセイに加えて、ご依頼のコラム、書評、記事等も作成いたします。ツイッターのDMなどからどうぞ!