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いにしえの「名花」たち ―陳舜臣『中国美人伝』―

 これは私が以前読んだ桐野夏生氏の長編小説『グロテスク』とは対極にある本だ。『グロテスク』が女性が本質的に持っている怖さや醜さを容赦なく暴く小説であるのに対して、2015年に亡くなった陳舜臣氏の短編集『中国美人伝』(中公文庫)は女性の強さや美しさを嫌味なく描いている。
 ここでなぜ、私がわざわざ「嫌味なく」という言葉を使うのか? それは陳氏の後輩に当たる二人の男性歴史小説家と色々と比較してしまうからである。すなわち、宮城谷昌光氏と塚本靑史氏だ。宮城谷氏の作品は、あまりにも「君子的」であろうとするばかりに、主人公をやたらと優等生じみて描いてしまうし、変にお説教くさく、登場人物のえこひいきが激しい。それに対して、塚本氏の作品は、宮城谷作品と比べて登場人物のえこひいきは露骨ではないが、無駄に色々と「醜化」しているし、露悪趣味が激しい。つまり、宮城谷・塚本両氏はお互いに両極端過ぎて、読んでいて色々としんどいのだ。
 そんな両氏とは対照的に、陳氏の作風は安心して読める「中庸」だ。変なお説教くささのゴリ押しもなければ、無駄なウケ狙いの露悪趣味もない。私は、そんな良心的な作家の退場を惜しんだ。

『中国美人伝』には、春秋時代から清代までの名高い美女たちを主役とした短編が七作収録されている。最初の「西施」は、春秋末期の越の女スパイだが、人並み以上に聡明な彼女は、自分を道具にした人物に復讐する。前漢中期の詩人・司馬相如の妻「卓文君」は、深窓の令嬢の枠組みに収まらない「強い女」だ。前漢後期の「王昭君」は、異民族である匈奴に対する偏見を持たず、新天地で幸せを得る。西晋の皇后「羊献容」は、内戦で何度も皇后の地位を剥奪されるが、最後は匈奴の王族の男・劉曜の后となって平穏を得る。唐の女流詩人「薛濤せつ とう」の話は意外な展開、いわゆる百合小説だが、おそらくこれは、古代ギリシャの女性詩人サッフォー(レズビアンの語源になった人)を意識したものだろう。明の皇帝のベビーシッター改め寵姫の「萬貴妃」は、他の女性たちを陥れた「悪女」とされるが、この作品集での彼女はある程度同情的に描かれる。清の順治帝の寵姫「董妃」は、元々順治帝の弟の妻だったが、楊貴妃が玄宗皇帝の息子の嫁から玄宗自身の寵姫になったのと似たような感じで、順治帝と愛し合うようになった。
 ここで楊貴妃の名前が出て「おや?」と疑問に思った人はいるだろう。そう、この作品集には、中国史の美女の代名詞である楊貴妃の話が収録されていないのだ。陳氏は後書きで、同じ雑誌(小説新潮)に20年も前に掲載された作品をリニューアルするのも気が進まないと書いているし、他にも色々な作家さんが手がけている題材なので、あえて楊貴妃の小説を入れていないのだ。そして、おそらく、三国志関係者が主役の小説が入っていないのも、それらは手垢がつきまくったモチーフであり、陳氏自身もいくつかの三国志小説を発表したので、三国志の美女たちもこの作品集には登場しない(少なくとも羊献容は、正史『三国志』や『三国志演義』には登場しないので、ギリギリセーフなのね)。

 陳氏が描いた女性キャラクターたちには、嫌味がない。宮城谷氏の描く女性キャラクターからは、宮城谷氏自身が抱いているであろう現実の現代女性に対する不信感が透けて見えるように思えるし(吉永小百合さんファン男性の一般人女性蔑視みたいなもんだね)、塚本氏の描く俗っぽい女性キャラクターからもまた、現実の現代女性に対する不信感の匂いが感じられるが、陳氏が残した女性キャラクターたちは「同性として友人にするに値する」と思える人もいる。まあ、私がフィクションの中の女性キャラクターの扱いに対してうるさいのは『ファイブスター物語』並びに永野護氏の影響だけどね(笑)。

【椎名林檎と宇多田ヒカル - 浪漫と算盤】
 いわゆる「百合」ではなく「女性版ブロマンス」と呼ぶべき関係性だろうが、良いコンビだね。


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