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終わっているなら、また始めればいい ―高橋源一郎/SEALDs『民主主義ってなんだ?』―

 まずは、先に私事を書く。私は物心つく前に実父と死に別れ、私が小学二年生の頃に母親が再婚した。継父と私は「不倶戴天の敵」同士だった。
 継父は、とにかく私が気に入らなかった。私も、とにかく継父が気に入らなかった。要するに、お互いに親子として「好みのタイプ」ではなかった。継父は「明るく素直で活発な子」が理想で、私は「知的レベルが高くて他人に対する理解と共感を重視する紳士」が理想だった。この需要と供給のミスマッチが私の悲喜劇だった。
 私は高校を卒業して就職してからも親元で暮らしていた。一時期は両親が離婚して、母と弟と三人暮らしをしていたが、私は一人暮らしなど考えられなかった。母が継父と復縁して、私たちは継父の家に戻ったが、しばらく経ってから母が白血病を発症して入院したのがターニングポイントだった。

 私にとっては、母は私とあの家をつなぐほぼ唯一の絆だった(弟は家を出ていた)。私は継父や義兄から家事のやり方などをいびられてブチ切れた。そして、口論が始まった。私は、今までの(つまりは私の子供時代からの)継父の私に対する仕打ちを非難したが、継父らは私を「頭がおかしい」と見なした。そして、継父は傲慢にも「多数決が民主主義なんだ」と言い放った。私は、継父と義兄の暴言に腹を立て、さらに誘導尋問で「お前が出ていきたいなら出ていけ」と言われて家を追い出された。そう、最初から結論は決まっていた。そして、母が亡くなってからは、私のあの家での居場所は完全になくなった。

 さて、本題。この『民主主義ってなんだ?』(河出書房新社)は、作家の高橋源一郎氏と「自由と民主主義のための学生緊急行動(Students Emergency Action for Liberal Democracy - s )」略称「SEALDs(シールズ)」のメンバーたちとの対談集である。このSEALDsという団体は賛否両論あるし、私がツイッターでフォローしている人たちの中にも、この人たちに対して不信感を抱いている人もいる。しかし、私自身はSEALDsをひいき目に見ている。
 私は「この人たちは若さを有効活用している」と思っている。私が子供の頃の「今時の若者」たちは、若者嫌いな大人たちのお望み通り「愚か」な姿勢を取っていた(私の継父はそんな若者を見下すのが大好きだった)。しかし、今時の「今時の若者」は、昔の「今時の若者」ほど「愚か」ではない。そして、懸命で賢明な若者は、いながらにして、若者嫌いな大人たちや「非リア充」の同世代人に対して「脅威」となる。世間でのSEALDsに対する非難は、かなり「嫉妬」に支えられているように見える。なるほど、いわゆる「非リア充」の若者がSEALDsに対する反感ゆえにネトウヨ化するのは、明らかに嫉妬だろう。

 この本のテーマは民主主義だが、民主主義の定義や条件は人それぞれとしか言いようがないだろう。女の数だけ女心があるように、フェミニストの数だけフェミニズムはあるように、万国万人共通の「民主主義」の定義はない。私をしばしば「幼稚園児並み」呼ばわりした、同じく「幼稚園児並み」の継父が「多数決が民主主義だ」と決めつけるのも、民主主義の一つの見解だろう。まあ、「見解」という言葉を使えるほど大層な意見ではない「妄言」にしか聞こえなかったけどね。
 この本に引用されているジョン・デューイという人の発言「民主主義は他者と生きる共生の能力だ」とは、もしかすると継父が私に言いたかった事なのかもしれない。何しろ継父は私に「人間には思いやりと常識が必要なんだ」と言っていたのだ。しかし、当時の私にとっては継父とはこの世で最も憎んでいる不倶戴天の敵だったのだ。彼のこの発言は、単に己を良識人に見せかけてうぬぼれるためのものだったのだろう。

 仮にかつての私の立場を淮陰の韓信に例えるなら、「偽サバサバ男」である継父は当然劉邦だ。そして、継父以上に陰険な義兄は呂后役だ。劉邦が韓信の怨みを呂后に向けさせたように、継父は義兄が私に「俺はお前が嫌いだ。なぜなら、家事がロクに出来ないからだ」と暴言を吐いたのを平然と黙認した。こんな陰険な連中が民主主義を汚すのだ。実に許しがたい。義兄は私に「お前なんて奴は終わってる」と言い放ったが、当時の私は何も言えずにひたすら悔しがっていた。しかし、今なら言いたい。終わってるなら、また始めりゃいいじゃん。民主主義もまた、終わればまた始めればいいのだ。

【フジファブリック - 若者のすべて】


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