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春揺れる

春が、揺れる。
大きな窓の下、一つきりのランプをのせた机で仕事に向かう私に、語りかけるように。
何もかもを思い出さないように没頭していたいのに、春は私にそれを許さない。握りしめた万年筆が原稿用紙を削る音に、窓がかたかた震える音が絡まる。
ガラスの向こうのまだ冷える夜、庭の端にどっしり根付く桜は満開。窓を隔ててはらはら雪のように散りゆく花びらが、原稿用紙に儚い影を落とす。指先が震える。
桜が散るのと共に消えたあの人。いなくなって何度目の春かなど、もう数えたりもしないのに。

顔を、上げる。
カーテンを閉ざして揺れる春を遮断すると、そこで集中が途切れ息が落ちた。
振り返った部屋は散らかり放題、隅には投げ出されたままのダウンコート。玄関には真冬用のブーツも出しっぱなし。季節に追いつかれて、追い抜かれてしまった。まだ終わらない仕事、埋まらない原稿用紙。中途半端な季節にたゆたう私。
かたかた、かたかたとカーテンの向こうで鳴る窓枠に苛立ちながら、ペンを置いて立ち上がる。桜の下であの人の優しい指に辿られた記憶が差して、揺れる己を知覚する。
三つの春を共に過ごしたあの人と見上げた桜。あれほどうつくしいものを、私は知らない。

庭に、出てみる。
吹き荒ぶ春の嵐の中、不規則な螺旋を描いて舞い散る桜は、白く千切れ飛ぶ。花冷えに身を縮めて庭を横切り、盛り上がるように咲きこぼれる桜の下へ。
春が巡るたび、あの人を今も慕う私の心にも花は無言のままに積もる。桜爛漫、見上げて私は己を見失う。
繰り返し咲く、当たり前の尊さが憎い。
手を伸ばし、細い枝の一つを力任せに手折る。めきゃり、強引に命を毟り取った私を責めるように風は強く、不意に唇にはなびらの一片を押し付けてくる。私はそれを無言で食み、水分のない淡さを奥歯で押しつぶす。
冷たく花を毟る嵐と私、どちらが非道だろう。花舞う夜の片隅に、こたえはない。

部屋に、戻る。
青い陶器の一輪挿しに桜の枝を押し込んで、風に鳴り続ける窓辺に飾る。ランプに照らされて、桜はあたたかな熱の色に染まる。
机に着く。この仕事が終わったら何をしよう。いっそ好きなだけ桜を追いかけて北へと旅でもしてみようか。かたかた、かたかた。春の窓辺はまだ揺れている。音に合わせて声を立てて笑ってみると、花冷えに無意識に竦めていた肩から少し、力が抜けた。
ようやく、万年筆が滑りだす。
はらり、春のひとひらが机に広げたままのたくさんの資料の上に、落ちる。

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