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痛み

ここ数日、家族とケンカをしていた。

ケンカってすごく嫌だし、自分の中の傷や痛みを刺激されるから向き合うのがとても苦しくなる。

感情的になるから相手を傷つけるし、自分自身も傷つく。

すんごい嫌だけど、自分のその刺激された痛みや傷と向き合う最大の機会であることは違いない。

それにその痛みは何度もやってくるから、どこかで向き合ったほうがいいことも分かっている。それでも全身が拒否反応を示していた。

考えてみれば、内容は違えど私が刺激されて怒りがわき上がるテーマは一緒でやっぱり向き合おうかと今回は重い腰をあげた。

私のテーマは「分かってほしい、認めてもらいたい」だ。

私には弟がいて、子供の頃からいつも弟が家族の中心だったし、親戚の中でも男の子が彼だけだったせいか私から見てチヤホヤされているように見えていた。

体も弱かったし、引っ込み思案で小学校の頃はいじめにも遭い、不登校でもあった。
反抗期の頃は引っ込み思案を振り切って荒れに荒れ、ひどく親を困らせていたし、私も大嫌いだった。

常に親の目は彼に向いていた。
それが私にはうらやましく思えて、いなくなればいいのにと思ったこともあった。
引き換え私は健康だったし、友達にも恵まれ反抗期は父を疎ましく思う時が少しあった位であまりなかったように思う(自分では)

何より母が大変そうで、弟がいろいろ持ち込む問題に振り回されていたから私は問題を起こさないように迷惑かけないように自分で何でも一人でしなくちゃと思っていた。
彼は問題を起こして困らせているのに常に親の関心を引き、迷惑をかけても結局は許されて私より受け入れてもらえていて愛されているように感じていた。

何か家族の中で困ったことがあると頼られたりすることが嬉しかった。
母に頼られることも嬉しかった。
必死に応えようとしてきたし、私は家族を支えていると思っていた。
だから愛されるに値するとも思っていた。

弟よりも私を見てほしかったんだと思う。
弟よりも両親にとって私の方が必要な存在でありたかったんだと思う。
自分の気持ちより、人の気持ちを優先して犠牲的な行動をするようになったのも自分は何か役に立たないと必要とされなくて見捨てられると思っていたからだ。

分かってもらいたかった。
私はこんなにも背負っていることを。
役に立つために努力していることを。

認めてもらいたかった。
私の重要性を。私の存在を。

ずっとずっと悲しくて、さみしかった。
分かってくれない、認めてくれないそんな怒りをずっと抱えていた。

そんな自分を自分の中に見つけて、なんだかホッとした気持ちになった。

私が見ないように触れないようにしていたから、ずっと苦しかったんだと思った。

誰でもない私が私に分かってほしくて、認めてほしかったんだ。

そもそも両親にとって別にどちらかが大切で、どちらかが大切じゃないとかゆうわけじゃない。
私がほっとかれているように思えていたのは、親にとっては安心してほっておける存在だったからだと思う。
親も親をするのは初めてでいろいろ仕方なかっただよなぁと思う。
私は親になったことがないから、親心が分からない。
それと同じように私が抱えている痛みは親には分からないんだと思う。

でもそれは当然で。

だって、経験したことない。
たとえ同じ経験をしたとしても同じように感じることはない。
親子であっても違う人間だから。

「分り合えない」この前提に立ってコミュニケーションをすることが大切で、自分を知って、相手を知って言葉を尽くすこと、伝えることが大切なんじゃないかと思う。

だからこそ今回のようにケンカとゆう形だけど親がどう思っていたのか、私がどう思ったのかを話すきっかけは必要だったんだと思う。

まぁたぶん、またこの痛みは刺激されるんだろうけど、今回向き合ったことで今までよりは自分を知れて寄り添えるような気がする。
そしてまだまだ見つけられてない痛みがあるんだろうなと思う。








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