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お世話になった人⑥

さて、今回お話するのは、私の人生の中で、大きい影響を受けた人たちの中の一人です。

音響制作の会社を辞めた私は、幼少期より場面緘黙の症状があり、高卒以降はやや改善していたものの、それに伴い性格的に消極的、引っ込み思案、人見知りな面が強く見られました。また、私がこの「場面緘黙」という言葉を聞いたのは、20歳頃、聖路加病院の院長であった故、日野原重明先生の著した音楽療法の本からでした。

また、幼少期は、特に母親から「もっと喋らないと駄目だ」と、口うるさく言われ続けていて、その事が私にとってのコンプレックスのように感じてしまっていたのでした。

音響のイベントでハウリングに気がつけなかったのは、耳に問題があるというよりも、大人数の前で緊張しやすいという事もあると思います。

また私が、どちらかというと、1人でする仕事よりも、複数人でひとつのものを作り上げていく仕事を選んだのは、人とたくさん関わることで、話す力、最近ではコミュニーケーション力というのでしょうか。これを身につけようと思ってのことでした。

しかし、この事は本来の自分にとって負担が大きかったようで、後にうつ病の発症に結びついていってしまうのでした。もちろん、複雑な家庭環境で育ち、そのタネは既に幼少期から持ってはいたと思います。

さて、前置きはこのくらいにして、音響制作の会社をやめ、「話すこと」の練習を積むには…と、自分なりに考えた結果、飲食店のホール係のアルバイトをしようと決め、自宅からほど近い中国料理のレストランにアルバイトの面接を受けに行きました。

この時書いた履歴書の志望動機の欄には、自分を磨きたいなどと書いていたと思います。この面接で対応してくれた人、この人こそ、今回お話しようと思っている人、このレストランの総支配人です。総支配人とは言っても、この時29歳でした。このお店は、規模が大きく、3階建てで、1階に軽食的な小皿をメインとしたカフェ、2階は本格中国料理レストラン、3階は宴会場という構成になっていました。

当時の私は、本当に自己肯定感が低く、自分に自信が持てず、はい/いいえで答えられる質問ならまだしも、5W1Hのような質問を投げかけられると途端に黙り込んでしまうような感じでした。

当時は、接客の基本となる「いらっしゃいませ」の声が、お客様に届かず、まずはそこから、教育される事になりました。一番近い先輩(私もより先に入っている)は、当時高校2年だった女の子でした。私は、当時21歳でしたが、彼女と一緒の持ち場になると最初の頃は、どうしていいか本当に分からなくて、彼女の後をついてまわるようになっていました。彼女は、普通のどこにでもいるような女子高生で、入った時期も4ヶ月くらいしか変わらない感じでしたが、接客態度や要領もよくレジなどを任されていました。

一方の私は、夕方の2階はあまりゲストが来る頻度が少なかったので、ディナーのオープン17:00からは2階の誰もいないホールでカスターの補充や、シルバー磨きなどをしながら、仕事をしていました。

営業が終わるとみんなで賄い食を食べて帰るのですが、そのみんなが賄いを食べている時、私は総支配人に言われて「いらっしゃいませ」を言う練習をさせられていたのでした。

私の仕事の出来なさは、本当に酷いものだったようで、電話応対、注文のとり方、全てにおいて、ほぼ一から叩き込まれるのでした。ゲストがいない時は、基本的にホールにいますが、ゲストが多くなってくると裏の仕事を任されることが多く、裏は裏でゲストとの関わりは少ないものの、その分、厨房と洗い場とのコミュニーケーションが大事になってきます。また、洗い場では洗えない割れやすいグラスなどの洗浄、無料で出す烏龍茶の作り置き、ドリンクをつくるのも裏の人の仕事です。コース料理の進行などをホールから言われたのを効率よく厨房に伝えたりします。

私だけでなく、みんなそうだと思いますが、初めての人と関わるのは緊張するし、コックさんだと気が短い人も多く、最初は威圧されてるように感じてしまい、萎縮してしまっていたのですが、そんな私を見てか、暇な時などに、よく声をかけて頂き、厨房、洗い場の方々とは良い関係を築いていけたと思います。恐らく総支配人は、裏のやりとりを通じて、慣れさせようと思ったのだと思います。私も当時は結構必死で、2階は、ランチタイムの15時で1回閉め、2時間の休憩としていたのですが、その休憩中もできることをやっておこうといろいろやっていたのを思い出します。

一方で、総支配人は怒らせると怖い人でしたが、愛嬌もあって常連のお客さんの前で「若い頃の自分を見ているようだ」とよく話してくれました。ほかの人員配置は、30代の副支配人、27歳のアルバイト男性、25歳の社員、40代後半の男性アルバイト、40代主婦のパートさん、また後に入ってくる私より6個下の女子高生などでしたが、彼らの話はまた別の機会に話していこうと思います。

また総支配人は、他の人にも理不尽な事を突きつけていたようですが、持ち前の愛嬌もあり、憎めない性格でした。ホールの人達は総支配人のことを「理不尽大魔王」と呼んでいて、本人も「どうせ俺は理不尽大魔王だ、文句あるかー!」などと言って、場を和ませていたのを思い出します。

また、私がだいぶ慣れてくると、ホールの人を誘って飲みに連れて行ってくれたり、BBQや、男性だけで風俗に行ったりなんていうこともありました。

そんな総支配人には、今でも感謝しています。今ではもう連絡の手段がなくなっていますが。

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