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怖くて質問できない人はこう考えよう

 Twitterにて

「質問することが自分の知識だけでなく思考もリサーチも不足していることのアピールになりそうでなかなか人に聞けない」

という意味のツイートを見かけました。ツイ主さんのことは直接知りませんが、数学か物理学の勉強を熱心にされている学生だったと思います。

 これは日々試行錯誤しながら勉強や仕事をしている人によくありそうな悩みですね。私自身も同じように思ってたので気持ちは分かります。けれども就職して数年経った今では違った考え方をしていることに気づきました。それについて書いてみようと思います。

 これは自分のTwitterアカウントでも一度書いたことですが、noteで内容を補強して書き直します。

すべきでない質問のこと

 まず、自分で全く考えも調べもしないで質問すると、何もしないで答えだけ知りたいと思っているような印象を聞かれた側は受けます。プログラムを書いていてエラーが出た時にエラーメッセージを検索してみることなく「なんか動かないんですけどどうすればいいですか」と聞くのがそうですね。

 自分からは全く働きかけないでただ欲しがるTakerの態度です。これが幼稚で恥ずべきことと考えるのはもっともです。仮にこれを「すべきでない質問」としましょう。

 このとき逆に「していい質問」とは何なのかと言えば、少しは考えたり調べたりした上での質問だと言えそうです。しかしそうすると今度は質問すること自体が「考えたり調べたりしても私には分かりませんでした」とのメッセージを発することになります。すると冒頭で書いたように能力が低いと思われてしまいそうでそれが怖くて質問できないという悩みが発生します。

自意識の問題

 これに関しては古より「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉があります。しかしそれを知っていてもなお他人に質問できない人は少なからずいそうです。私自身もそうでした。

 でも実のところ「人は基本的に自分のことで頭がいっぱいで、あなたが思っているほど良くも悪くもあなたのことを何とも思わない」のが現実です。

 これは自分が質問を受ける側になると分かり始めると思います。誰かが自分で考えたり調べたりしても分からないことを聞いてきたときに、熱心に知ろうとする姿勢があれば現時点での知識・経験の不足や思考・リサーチの上手くいかなかったことはまず気になりません。一度教えたことがまた分からなくなって聞きにきたとしても、分からなくなった状態で固まるのよりよほどマシだと言えます。

 手前味噌ですが同じことに悩んでいた私は半年前にこのことをnoteで書いていまして、結論の部分を抜き出すとそれは次のような気づきでした。

自分がこんな人間だと思われたと感じたとき、実際にそう思っていたのは私自身でした。それは他の人にどう思われるかの不安や恐怖に自己象を重ねてしまっている、言い方を変えると自己嫌悪の言葉を脳内で他者に代弁させているに過ぎないということです。

 質問することによる恥ずかしさに関して言えば、「こんなことを聞いたら無能だと思われてしまう」と思った瞬間にはその人自身が自分のことを無能だと思っています。そして実際に質問を受ける相手が質問者をどう思うかは全く別のことです。

 もしかしたら嫌なことを言われるかもしれませんが、その場合は聞く相手を誤っただけです。

 本当の問題は、能力が低いと思われてしまうことではなく、考えたり調べたりして答えに至らなかったことを受け入れられないところにあると考えています。能力自体ではなく自意識・自己受容の問題です。自分の無知さ・頭の悪さを露呈したように感じるのは不快な体験かもしれませんが、一旦それを受け入れないと次へは進めません。

良い質問のメリット

 そう言われてもなかなか切り替えられはしないでしょう。自分の考え方を変えようと思ってもそれだけでは何も変わらないのが人間の特徴です。

 そういうわけで視点を変えてみたいと思います。

 優れた質問の仕方があるとすればそれはどういうものでしょう。これには人それぞれ違った答えと、人それぞれ違った言い表し方があると思います。

 私個人としては勉強や仕事における優れた質問には「考えたり調べたりする時間を大幅に節約する」という特徴があると思っています。 

 難しい事でも相応の時間をかけてリサーチし、あるいは悩み考え試行錯誤することで自己解決するかもしれません。けれども自分より詳しい人に質問することで、答えがあるものならすぐに答えが分かるし、答えがなくても無駄な思考の周り道をショートカットできるかもしれません。だから時間の節約になると言えます。

 もちろん質問に答える側は時間を使うことになりますが、「教わる側が質問しなかった場合に余計にかかる時間」が膨大になる可能性があるならば質問への回答にかかる時間は無駄ではありません。むしろそれこそ教育の醍醐味ではありませんか。

 逆にggrksと言われてしまうような質問とは、ちょっと考えたり調べたりすればいいことでした。これは見方を変えると「自分で答えを見つけるのにかかる時間が著しく短いと予想されるケース」と言えます。

 これとは別に、答える側が質問の意図を理解することや回答する言葉を選ぶことに長い時間を使ってしまうような質問もあります。これは別の種類の悪い質問だと思います。

 これら両者には共通することがあります。それは「質問を受けて回答することが自分で答えを見つけ出すのにかかる時間の節約にならない」という点です。

 まとめると「自力で答えを見つけるまでにかかる時間」が「聞かれた側が回答するのに必要な時間」と比べて明らかに長いと予想されるなら「質問すべき」である。これが質問に関する私の考えです。

 ただしこれにも例外はあって、答えは知られているけれど理解を深めるために一度は自分で考えてみるべき問題が専門的な学問には数多くあります。これにはもちろん「自力で答えを見つけるまでにかかる時間」>>「聞かれた側が回答するのに必要な時間」なる関係は成り立ちますが、それがそのまま答えを聞いていいことにはなりません。

 でも途中のプロセスの一部分のことならいいだろうし、むしろ質問すべきじゃないかと思います。聞くのは答えそのものではなく、自分なりに考えた上で行き詰まっている点に絞るべきでしょう。

 そこでまた思い出して欲しいわけです。あなたの現時点での知識・経験の不足を理由に無能だと思ってしまうのはいつもあなた自身であり、熱心に知ろうとする姿勢が質問する側にあって質問を受ける側がまともであれば向こうは気にしないのだと。

(追記 2020/11/24)

 今日この動画を見ました。なるほど、たとえ人に聞いた方が早くても質問のしすぎはよくありませんね。この点はほぼ想定外で、一応「聞くのは答えそのものではなく、自分なりに考えた上で行き詰まっている点に絞るべき」と書いていますが頻繁に質問する人のことを考えていませんでした。なのでタイトルを「いい質問、悪い質問とはどういうものか」から変更しました。(^_^;)

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