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映画『TENET』私的な感想と解説


今日、たまたまTSUTAYAに立ち寄って、『TENET』のレンタルが開始していることを知りました。


この『TENET』という作品は、個人的には現時点でのクリストファー・ノーラン作品の中で最高傑作だと考えています。

しかし、独特な世界観とそれに伴う複雑なストーリー展開によって世間ではイマイチ正当な評価を受けていないという所感です。

そこで、この作品は「回文構造」を味わう作品なのだということをこの記事で伝えたいです。


なお、この記事では「エントロピーとは何か」とか「逆行セイタ―がどうだ」とかいう作品に関する科学的な説明や状況説明については改めて行う気はありません。

というのは、そういう記事は多く世の中に存在している上、「因果関係による理解」そのものがこの作品に関してはナンセンスだというのが私の主張だからです。



「逆行」という世界観について


まず、この『TENET』という作品の世界観の核をなす「逆行」というシステムについて述べていくことにしますが、私は初見時、この「逆行」という世界観について以下の文章が頭に浮かびました。


われわれの時間と逆の方向にすすむ時間をもつ知的生物体を空想することは、きわめておもしろい知的実験である。そのような生物がわれわれと通信することは不可能であるにちがいない。彼がわれわれに向かって送る信号は、論理の順序が逆になってわれわれに達するであろう。
(中略)
もし彼がわれわれに正方形を描いてみせるとすれば、(中略)われわれには正方形が消え去ってしまうという、まったく唐突な、しかし自然の法則によって説明できる、一つの異変事とうつるであろう。
ウィーナー『サイバネティクス』(岩波文庫第3刷)p68より


以上は、「サイバネティックス」という科学分野の創始者であるノーバート・ウィーナーが『サイバネティックス』という著書の中で「時間の方向性」について述べた箇所で出てきた思考実験です。

この説明を『TENET』の世界観に当てはめると、「正方形を描く」ことと「正方形を消す」ということは視点だけの問題で、いずれにせよ「正方形があった」・「互いに正方形に向かっていった」ということが重要だと言うことになります。


『TENET』でも序盤の「逆行」という世界観を説明する部分で、同じようなことを弾丸を用いて説明します。

すなわち、弾丸を「放つ」・「落とす」という行為は見方を変える(逆再生する)と、弾丸を「キャッチする」という行為であり、それは同じであるという説明です。

ひいては『TENET』の世界観では、いずれにせよ「弾丸は何かに向かって進んだ」という事実があるのだから因果的な理解は不要で、感覚的に感じろという訳です。


これは共時的な理解・感性です。過去と未来から挟み撃ちの理解を行った場合、現実を受け入れる他ないという感覚です。

この共時的な世界観は「起こったことは仕方がない」という組織(TENET)の信条や、ともかく「記録(ログ)」=何が経由されていったのかが重要であるという価値観に繋がる訳です。


そして、上で引用した部分の結論は

「われわれが通信しあえる世界の中では、時の方向はどこでも同じである」

というものなのですが、ウィーナーの意図はともかく、

この結論は私個人の解釈として『TENET』の世界でも同様であったと考えます。


つまり『TENET』という作品を通して、全ての登場人物は「前」へ進んでいました。

たとえ逆行状態にあったとしても、それは周りの世界の論理が逆向きになっているだけで、各登場人物は「前」に向かって進んでいます。

そして起こる出来事を私達と同じように理解し、コミュニケーション(通信)することが出来ています。

実際、カーチェイスの場面でセイターは過去(未来)の自分とリアルタイムで通信することで情報を得ています。順行世界であれ、逆行世界であれ「時の方向」は同じなのです。


この文脈に物理学者エディントンの用語を拝借して「時の方向=矢の進む向き」と例えた場合、『TENET』の「逆行」で変わるのは「矢の進む向き」自体でなく、それを取り巻く「風の方向」なのだと考えるのが正確だと思います。


逆行装置で逆行を行った場合も「時の矢」は前へと進んでいます。

逆行世界で10年生きれば、現実(順行)世界と同じく10年老けます。

ただし、過去へ10年戻ることが出来るということです。


以上を踏まえて、

逆行とは、「前に進んでいるが、向かい風に押し戻されている時間の矢」の状態と考えたら良いでしょう。


つまり、基本的に『TENET』の世界は「順行方向」の時間が優勢な訳です。

未来に進む(順行)にせよ、過去に戻る(逆行)にせよ、時間は「前(順行方向)」へ進んでいきます。

(※作品中では、「前へと時間が進む勢力」が「後ろへと時間を戻そうという勢力」より優勢な間は前へと時間が進んでいくというような表現がされていました。)


それで各登場人物の視点において常に時間は前向きに進行していることは作品を通して変わりありませんでした。

基本的に勢力は順行側にありますから、前(順行方向)へと大枠の時間と映画は進んでいくのです。

しかし、それすらも覆してしまうのが作中の「アルゴリズム」なのです。

(※科学的にはエントロピー増大の向きを反転させる)


「前」という概念そのものを真逆の概念である「後」にする、これが「アルゴリズム」だと説明できます。

「アルゴリズム」の起動によって、時間の矢は「後」へと「進む」ようになります。

こうなると、どうなるのかという事は私も完全には分からないのですが、順行世界での視点では「情報」を「消去」する世界になるのではないかと考えています。

つまり、順行世界で現在から未来が分からないように、逆行世界では現在から未来(順行世界における過去)について様々な情報を知っていて、それを忘却していくように「見える」のがルールになるのではないかと思います。


まあ、これは考え過ぎない方が良いというより、『TENET』については「見方を変えろ」と作中で何度も言及されているように「視点」が問題になってくる上、鑑賞者の理解(視点)というメタまで入ってくるので、因果的に上手く説明できないのです。

(※「感じろ」というメッセージを始めの方に発信したのはそのためでもあります)

ただ、少なくともそれは作品世界の終焉を意味するのであり、「アルゴリズム」が起動すればそれこそ『TENET』は二重の意味で終わりです。


もし「アルゴリズム」が起動してしまったならば、作品世界の概念そのものが現実世界から全て反転してしまうので「表現(通信)不可能」な映像を映す必要があるからです。

急に画面は暗転し、劇場の照明が点灯し、係員がやってきて『TENET』はこれで終わりですとだけ伝える。作品との通信がその瞬間に途絶えてしまう。

しかし、このような作品は理解不可能なものとして受け入れられなかったでしょう。

ひいては、『TENET』と同じ方向に生きる現実世界の私達、鑑賞者側も作品を鑑賞可能だったということです。



回文構造だと理解して楽しむシナリオ


この『TENET』という作品を理解しようというのは、作中で何度も言われているように「見方を変える」必要がある上、最初に「感じろ」と言われている時点で野暮な行為な訳です。

しかし、それでは納得しないのが我々人間の脳、理性という解釈装置の働きであり、それで様々な解説動画や記事が存在しているのだろうと思います。

もちろん、私自身もその一人でありました。


そして、随分頭を悩ませていたのですが、

この『TENET』を理解するには最後まで観て「回文構造」だと気付くことが全て

なのではないかと考えました。


というのは、本当にこの『TENET』を前から理解しようとすると、どうしても逆行側が順行側に干渉した部分などで疑問に思う箇所が多々出てきてしまうからです。

例えば、逆行弾が逆行銃に戻る時(逆行側の撃つ動作)、順行世界でその弾はいつからあったのか、車の傷もいつから存在していたのかなどのことは簡単に疑問に思うことが出来ます。


これに一つ答えを与えるとすれば、「そのシーンになったから存在した」と言う他ないのです。

順行・逆行が同時間軸に存在するシーンは共時的な関係で理解する以外ありません。

それ以外の時系列に沿った因果関係的な理解ではどうしても矛盾が生じてしまいます。


最初と最後からの逆算(挟み撃ち)がこの作品の全てです。

逆行銃を撃つから、ガラスに跡が存在しているのです。けれども、ガラスに跡が出来るのは、順行銃を撃つからなのです。

名もなき男を助けるから、足元に死体が何故かいきなり転がっているのです。けれども、ニールが銃で撃たれて死んだのは、主人公をかばったからなのです。


ややこしいカーチェイスシーンも、場面の最初と最後からの逆算です。

アルゴリズムをセイタ―に奪われ、キャットが逆行銃で負傷するという最後を再現するためだけに色々とやっているだけです。

途中、セイタ―を騙してキャットを助けながら、プルトニウムを保持する場面があったために車が横転していて突然逆行を始めた、そういうことです。


では、巷で囁かれている「マックス=ニール説」は?

当然、そうだと考えます。

あれこそ『TENET』の美しい回文構造の最たるもので、主人公がいるからニール(=マックス)が存在して、ニールは主人公のために死に、マックスが生き残る訳です。


だから「主人公」という「対称点」は物語の回文構造を成立させる特異点であり、神的なものです。

だから、名前を付けることが出来ないのであり、世界を司る「黒幕」なのです。


この逆向きの理屈が混在した各シーンを、現実世界に存在する私達が全て「前」への因果関係によって理解しようとするから矛盾が生じて分からないのです。

こういう一種の悟りの境地みたいな感覚が掴めないと、この作品の細部だけを取り上げて延々と文句を言い続けたり、何とか理解しようと時間を無駄にするでしょう。

「感じろ」と、実は最初からそれだけなのです。


つまるところ、この共時的な感覚以外で『TENET』を理解しようとするのは、

「世の中ね、顔かお金なのよ」という回文に対して、「誰が言ったんだよ!」とか「どうしてそんな結論になったんだ」とかツッコミを入れるようなものだということです。

そうすると当然、全体の回文構造は崩壊してしまいます。


世界観やストーリーはあくまでも手段で、この回文構造の美しさを味わうのが『TENET』という作品だと言えます。

最初から最後まで観て、「あ!これ回文になっている!」と理解することが唯一鑑賞者ができることなのだろうと思います。

「TEN」や「NET」という風に部分を見ていては意味を取り違える可能性すらあるのであって、全体で『TENET』だと理解する事に意味があるのです。


しかし、回文構造のシナリオにおいては物語を何処から始めるのかということが最初の問題になります。

何故ならば、鑑賞者はそれが回文構造だと分かり始める(対称点が分かる)までは何をしようとしているのか、果てには最後まで全体を見ても回文だと気付かない場合があるからです。

だからといって、「今から書くのは回文です。見ててください」と最初に言付けするのは冗長ですし、何よりも気がそがれてしまいます。


そこでノーラン監督の素晴らしい点は、「N」をまず書いてみせたということです。

左から文字が書かれ始めて、人々は何が書かれるのかと注目する。

すると、途中で手が止まり今度は右側から同じように書かれ始める。観客は何をしたいのか分かりません。

しかし「N」が完成して、「N」というのは点対称かつ前と後ろから同じ書き順を辿ることが出来て、どちらも「N」だという説明をすることで、この作品は「そういう作品なんだ」と少なくとも最後には理解することが出来る。

後は「T」でも「E」でも書いて行けば良いのです。


最初の「つかみ」、派手な銃撃戦をまず見せて、その中で「逆行弾」を見せてから自然に事情と世界観を説明して、ムンバイの場面へと繋がる。

「回文構造」という難解な主題をチョイスしつつも、エンタメを最初から最後まで意識したこの構成が出来るのは、他ならぬノーラン監督の素晴らしい点です。


だから、本作は2回観ましょう。

そして、因果的な説明を試みは途中で諦めて、作品全体を感じる。本作を楽しむためにはそういう態度が必要なのです。


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