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人はみんな違う世界を観ている 観察することについて

世界はあるがままで美しい。 常に変化をしていて同じ姿に留まることはない。 毎日、刺激がなくて同じような日々に見えても、毎日が違うし、瞬間瞬間に変化している。 

この変化を感じとって、楽しみたいと思う今日この頃であります。

自分が興味を持つものには、いつも共通のキーワードがあった。

それは、観察すること Obsebation 。 

気がつけば20年くらいやっているサーフィンでは、自然を観察すること。潮の動き、風向きや強さ、離岸流(カレント)、波のサイズ、他のサーファーの動き、地形などを観察することで、事故を防ぎ安全に楽しむことができる。観察から予測ができたりするわけだ。

10年くらい前から興味を持って6年前くらいから学んでいるパーマカルチャーでも、まずは観察すること。パーマカルチャーの12の原則の1つめが、Observe and Interact (観察と相互作用) 、観察して関係性を作っていく。 新しくパーマカルチャーをはじめる場合は土地を1年間は観察しましょうという。 しかし、みんな待ちきれずにガーデンにしちゃうんだよね。

Yogaでもアーサナで呼吸や身体を観察する、瞑想でも呼吸を意識して身体や心をただただ観察する。

そして、NVC 非暴力コミュニケーションでも、まずは観察することから。

NVCの4つの要素、観察、感情、ニーズ、リクエスト。 NVCについていくつか記事を書いてきて、やっと観察の話になりそうだ。

NVCでは評価(ジャッジメント)を混えずに、ありのまま観察することを勧められている。よく言われるのが、カメラで撮ったかのようにありのまま観るという表現される。

何をもって、ありのままというのだろうか。 ちょっと一例を出してみる。

「花子はいつも遅刻をする。」 これは、評価が入っている。 ”いつも”と"遅刻"が評価になる。

「花子は昨日、10:00の約束が10:10に待ち合わせ場所に着いた。」これだと評価が入っていないように受け取れる。しかし、ここにもいろんな可能性が隠れている。約束の時間は10:00ではなかったかもしれないとか、時計が間違っていたとか、そもそも約束はしていなかったとか。その時間には行けないと言ってたが聞き逃していたとかってことが隠れている可能性だってある。

さらに人間は、ここに何か意味をつけたりする。「花子はいつも遅刻してきて、人間としてダメなやつだ。」とか「罰を与えなくてはいけない。」とか、本人と関係ないことでさえ、「きっとあいつが何かしたんではないか。」って疑ってしまったり、あるいは花子さんと似た人を見ただけで、「こいつも遅刻魔かもしれない」なんて、思ったりするかもしれない。

人間の脳は過去の経験や記憶から瞬時に反応して、ジャッジすることができる機能があり、それゆえに自分独自の世界を観ている。 フィルターがかかっている、いわゆる思い込みっていうやつだ。 自分には思い込みはないとか思っていても、ほぼほぼ間違いなく何かしらの評価をしている。こうやって文章を書いているのも、常に何か自分のジャッジメントつきなんだ。評価をしちゃいけないとかになると、それもまた評価になってしまう。

NVCでは、こういうことを人は誰もが自分のメガネで物事を見ていること「NVCのメガネ」っていう言葉を使っている。普段使っている自分独自のメガネに気づいて、NVCのメガネで物事を見ていく。NVCのメガネはどんなメガネかというと、人が何を大事にして、何を必要としているかを見るメガネになる。

自分が観察をすることで大事にしたいと思うことは、評価をしないことよりも、評価をしている自分の思考や感情に気づくこと。一体、何があるのだろうかって、出てくること、起きることに好奇心を持っていたい。

長くなってきたので、観察の話もまだどこかで第二弾を書きたいと思う。

NVCについて、お時間あれば最初から読んでみてください。

NVC その1 人はなぜ対立するのだろうか? 非暴力コミュニケーションの種











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