自分の見つめ直し方

今、『本の虫の本』という本を読んでいます。

この本は、夏に日本に帰った時に前の職場を訪れた時にいただいたもので、執筆者の一人の能邨陽子さんが昔の同僚でした。同僚というのが恐縮で、彼女は二十年お店に勤め(今もいらっしゃいます)、私はたった二年で辞めてしまったので、超・超・超先輩です。今のお店の核になる部分を作った方ですね。

ヨーロッパにきてからつくづく思っているのですが、母国語でも使わないと能力が落ちます。とはいえ私は帰国子女でもなく、25年以上日本で生きてきたので、日常会話がわからなくなることは一生ないと思いますが、例えば敬語の使い方はもうかなり怪しいと思っています。日本語の持つ美しさへの感覚や、自分で表現する時の細かな言い回しはもう、かなり衰えてるでしょう(そもそも言語能力が低いというツッコミは置いといて)。

海外にそれなりに住んでいた方ならわかっていただけるんじゃないかなと思いますが、日本人と日本語で話している時でも、ふとした言葉が日本語じゃなくて住んでいた国の言語(あるいは日常使っている言語)で出てきたりする瞬間があると思います。

最初はそれが外国語の上達と思って嬉しかったのですが、最近は家族や友人と話したりする時に、思ったように言葉が出てこなくて、自分を表現できていないなと思うようになりました。それはきっと外から見てもわからない、もっと内なる感覚です。

ヨーロッパにきてもう三年目、日本語への危機感から、本をそれなりに持ってきましたが、それでもまだ読んでいない本がほとんどで、特にしんどい時こそ読みたくないのですが、最近心の状態があまりよくないので、パソコンの画面から離れようと開いたのが、『本の虫の本』でした。

知り合いが書いてるというのもあって、能邨さんの部分を読み始めたばかりなのですが、改めて彼女のさらっとしているけどすごく綺麗な日本語で、ストレートに染み入るようなものばかりです。語り口調なんですけど、美しくて、でも気取ってなくて嫌なクドさはない。

短編エッセイ集で、どの話もほぼ見開き一ページで終わるようなものばかりなので、活字嫌いな私でもスイスイ読めます(ところでなぜ私が本屋で働けたのかは今でも謎です)。能邨さんの話は、もちろん私が同じ職場にいたから、業界用語や体験談含めて「ああ懐かしい」という郷愁も含まれていると思いますが、どんな方が読んでも、書店員の日常や苦悩が垣間見える面白い内容になっていると思います。

そしてふと私はやっぱり自分を核を作ってくれたものの一つはこのお店なんだなぁと思います。あの頃は自分のことに必死すぎてあまり顧みることはできませんでしたが、今自分が大学に帰ってきたこと、研究に関する考え方、人との付き合い方、何を取ってもお店で学んだことが大きく、たった二年という短い期間ですが、思いもよらずたくさんの人々に会い、影響を受けました。

研究特有のストレスと言いますか、実験が動き出して良くも悪くも日常のほとんどを研究のことばっかり考えて、あまり自分自身のことを考える時間が少なくなってきたのが、どうも最近の心の不調のようです。あとヨーロッパの天気(寒い、雨、暗い)のせい。

心の不調とはいえ、サポートがないわけでもなく、割とこういう日常の些細なことを指導教員やポスドク、学生仲間に何気なく相談してみたりして、みんな同じように思ってるんだなぁと思ったり、それぞれの対処法なんかを聞いてみたりして、自分の折り合いの付け方を見つけているところです。

能邨さんの『本屋と喫茶』を読んで思い出しましたが、そういえば私は昔から喫茶店が好きで(いわゆるカフェも好きですけど)、だいたい旅行に行けばその土地のコーヒー屋さんを巡り、働いている時もお気に入りの喫茶・カフェを日替わりに巡っていたのですが、最近コーヒー屋さんには行くけどもいつも持ち帰りで、ただぼーっとすることもなくなりました。今週末は久しぶりに近所の喫茶に本だけ持ってぼーっとしに行こうかな。