バラトン旅行記

博士一年生の一大イベント、Comprehensive Examination(博士課程の資格試験)の三日前にハンガリーの海と言われるバラトン湖に行って初めてセーリングに参加した。もともと行く予定はなかったのだが、いろんな人にとても熱心に勧められて行くことに。バラトン湖には一度行ってみたいと思っていたし、何より一人で行くよりはみんなで行く方が楽しい場所なので、結果的に選択は間違いではなかったようだ。

若干気になる点があったといえば、自分は三日後にいわゆる進級試験を控えていたことと、イベントを企画していたのは私の所属する研究室ではなく、視覚表象や統計学習などを専門にしているところであり、研究内容的にも所属するメンバー的にもあまり馴染みがなかったことである。結局どちらも全く気にする必要すらなかったのだが。

小旅行の前日、同期と口頭試問に向けて小教室を貸し切って、お昼から発表練習をしていた。ちょうど三人目の発表に差しかかろうとしていた時、ドアが開き、誰かがのっそりと入ってくる。バラトンセーリングを計画している研究室を率いるP先生である。全く予期していなかったので、私を含めみんな何しに来たんだろうと思い、同期の一人は「発表練習手伝ってくれるんですか(な訳ないと思うけどという表情)」と聞くが、P先生は「いや、そうではないが」と言いながら、つかつかと私の方に歩み寄り、肩に手を置いて「アツコ、バラトンに来るって本当か?」と意味深な笑みを浮かべて問うてきた。

私の学部ではほとんどの先生が授業でも日常でも優しいのだが、P先生だけはこと学業のことになると厳しく、そして威圧的な人なのでこの言葉に少しビビる私。質問の意味を素直に捉えると「そんなことしてる時間あるかね?」ということだと思うが、恐る恐る「その通りですけど…」と答えると、シニカルな笑みの中にキラッと光る嬉しそうな表情を見せる。「オッケー。じゃあ詳細は後でメールで送るから!」と言って揚々と立ち去っていった。後にわかるのだが、このセーリングはP先生にとってとても大切にしている場所だったようなのだ。

旅行当日、七時四十五分にブダペスト南駅(Déli pályaudvar)に集合。私の家からはバスやメトロを乗り継ぐと三十分ぐらいで着くが、心配なので一時間以上前に家を出る。お昼はセーリングをし、ずっと湖の上に居るのでお昼ご飯を自分で持ってくるようにという指示があったため、適当なパン屋さんでサンドイッチを購入。確か150円ぐらいのハムとチーズとレタスが挟まったもの。

案の定早く着きすぎたので駅の周りを散策するが、朝早くて何もやっていない。都心のペスト側と違い、南駅はブダ側にあるので緑が多くとても気持ちがいい。ぶらぶら歩いているとようやく朝からやっているカフェを見つけるが、ゆっくりコーヒーを飲めるほどの時間はもうなかったので諦めて駅に戻る。

Balatonfűzfő(バラトンフゥズフォ?発音できない)行きのチケットを買いに行く。発券機でも買えるが人から直接買った方が安全ということで、列に並んで駅員さんから買う。挨拶以外一切ハンガリー語は話せないが余計なことは聞かれず無事購入。

約束の時間になるとみんなゾロゾロと集まり始める。だいたいみんな彼女か彼氏を連れて来ている。気づくと私以外みんなハンガリー人であった。もちろんみんな英語を喋るので必要なコミュニケーションは問題ないし、気を使ってか常に誰かが私に話かけてくれたので、特に退屈だなと思うことはなかった。そして私は何よりハンガリー語が好きだ。

目指す駅までは約90分。電車の中では、私のいるオフィスの横で働いているポスドク研究員の人と主に話す。口頭試問に向けての準備はどう?など親切に聞いてくれる。色々話していたが、途中で「アツコはカクテル好き?」と聞かれる。あまりに唐突だったのでよく意味がわからず、「あんまり飲めないけど好きです」と答える。彼に聞いてわかったのだが、どうもこのセーリングは単に湖の上で船に乗ってゆらゆら楽しむだけではなく、乗った瞬間からP先生がみんなのカクテルを作り出し、ひたすら一日中振る舞うという会のようである。

駅に着くと、どうもみんながそれぞれ買い出してしてきたものに齟齬があったらしく、アルコールだけが大量に集められ、水が一切ないとのことだった。それではカクテルが作れないし、何より水は必須だろうということで、P先生と学生数人が買い出しに行く。と言っても湖の周りにスーパーなどなく、結局三十分以上待つ。

水が到着した後、個人の荷物とカクテルの材料(アルコール、フルーツ、水)などを運んで船に乗り込む。一人操縦士がついてくる。やっと出発かと思って船の上で待っているがなかなか出発しない。するとP先生が海パン一枚になって湖に飛び込む。そんなに浮かれてるのか…と思っていたがどうも荷物の運搬途中にカクテルシェーカーの蓋を湖の中に落としたとのこと。数分後、P先生はそれを見つけ「見つけたよ!」と言って船に乗り込む。事情があったとはいえ、浮かれているのには間違いなかった。

そして船はゆらゆらゆっくりと湖の中心地へ向かって行く。バラトンの湖は浅く(平均水深五メートルほどらしい)、その関係でものすごく綺麗なエメラルドグリーン。前日大雨だったせいもあり、当日は澄んだように綺麗な群青色の空との湖の対比が美しい。バラトンは今も(基本的には)モーターで動くような大型の船は使っておらず、場所を美しく保つようにしているようだ。

船が動き始めるとすぐ、P先生はカクテルを作り始める。だいたい10人ぐらい乗ってたように思うが、その都度適当に一人か二人のアシスタントを携えて少しずつカクテルを作る。最初のカクテルはミモザ。その後、モヒート、テキーラサンライズ、ダイキリなどどんどん出て来るが、私はもはやこの時点で酔っ払っていてなんとなくしか覚えていない。結局朝から夕方まで飲み続けて合計一人当たり九杯ほど飲んだようだ。

私はその中でもモヒートがお気に入りで、ミントの香りが涼しく味と湖の色がマッチしたように感じた。モヒートを飲んでいると、P先生が話かけてくれた。先生はハンガリー人で、バラトン湖のことをとても誇りに思っているようだった。私は、「このセーリングは毎年計画しているんですか?カクテル作りも?」と聞いて見ると、先生はまた誇らしげに「だいたいそうかな。いつも学生や、またスペシャルゲストなんかを連れて来て、カクテルを振る舞ったりしている。」と教えてくれた。

お昼頃になると、錨を下ろし、船を湖の中心に固定する。そこでみんな水着になり泳ぎ始める。私は泳ぎが苦手なのでやめておくというと、相当珍しいのかみんなびっくりする。浮き輪もあるよと親切に言ってくれるが、私は基本的に冷たい水に濡れるのが嫌いなのだ。とりあえずかなり泳ぎが下手ということで勘弁してもらう。第一泳ぐつもりがなかったので水着は持ってきていなかった。

みんなが楽しそうに湖の真ん中で泳ぎ回る姿を見て、ふとなんで私今ハンガリーにいるんだろうと思う。ネガティブな意味ではなく、かといってポジティブな意味でもなく、ただ忽然とそう思った。日本にいる時からたまにそのように感じることはあったが、海外に来てからその回数が増えた。連続したストーリーがあって今私がここにいるわけだが、なんとなく不思議に感じたりする。

夕方になって船を引き上げる。最後のカクテルは確かマルガリータ。最後なのでキッチンに行き、カクテルを作っているP先生の様子を観察した。大学ではちょっと威圧的に見える先生も、みんなの為に冗談っぽく文句を言いながらもカクテルを作っている様子を見ると、なんてホスピタリティに溢れた人なんだろうと思う。そしていつもちょっと威圧的に振舞っているのは、どうしてなのかなとも思う。その人のスタイルだから別に意識してやってるわけではないと思うが、大学にいるだけだとなんとなく人と馴れ合うのが嫌いで、寄せ付けないオーラを放っているように見えるのだ。

ブダペストに帰る最終の列車に乗る。酔っ払いすぎて電車の中でずっと寝ている。他の人はサッカーの試合を見ていた。途中すごく気持ち悪く吐きそうになったが、水を飲んで寝るとマシになった。

再び南駅に帰って来ると、そこにはもう数人しか残っていなかった(他の人は途中の駅で降りたようだ)。その中でもP先生ともう一人、そして私が帰る方向が一緒だったのでメトロに乗る。P先生がなぜかふと「日本人は必要以上に求めないよな?」と聞いてくる。酔っ払っていてなんでそんなことを聞かれたのか全く覚えていないが、「うーん、そうですね、必要以上に物を持っていると恥のような文化があるかもしれませんね。」と答える。P先生は「それはヨーロッパに全くない考えだ。今日はよく眠れる夜になりそうだ。」と言って電車を降り、スタスタと帰って行った。私も次の駅で降り、なんとか家に着く。

バラトン旅行は私の中では思いの外、カクテルとP先生の思い出となった。もちろんセーリング中、ほとんどの人とゆっくり会話を楽しんだが、その中でもP先生の印象が一番変わったためか、非常に印象深い一日であった。いわゆる第一印象というのは本当に氷山の一角で、本当に他者を理解したいというとき、その印象はあてにならないと改めて実感したのである。