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映画やドラマに本とあれこれ

暇で適当にダラダラみたり読んだ作品について

Netflix『アンオーソドックス』(2020年)

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ニューヨークに暮らす超正統派と呼ばれるユダヤ教宗派のコミュニティから抜け出して新たな人生を模索しようとする19歳の女性の話。

彼らはニューヨークの街中で暮らしながらケータイもパソコンも持たず、宗教の研究に打ち込むために働くこともなく、ユダヤの613の戒律を守りながら文字通り信仰を深めるためだけに生活している

彼らにとって女性の役割は、ホロコーストで亡くなったとされる600万人の同志を取り戻すためにできるだけ多くの子供を産み、完璧に家事をこなす母親となることだ。

結婚すると「男を誘惑するから」と言う理由で髪の毛を剃られ、歌うことも許されず、ユダヤ教を信仰しているのにも関わらずその聖典とも言えるタルムードを読むと生意気だと罵られる。
まさしく産む機械だ。

主人公のエスティはそのプレッシャーや息苦しさに耐えかねて国外への逃亡を図り、超正統派のコミュニティではレッスンすら受けることができず諦めざるを得なかったピアニストになる夢を実現しようとするのだが…。

結局、外の世界で彼女を苦しめたのは、教養のなさであった。彼女の知識や常識は超正統派の世界のみでしか通用しなかった。

学校もまともに通わず、それ以外の世界を知らずに知識や技術を教えられることがなかった彼女は無知のために屈辱を受けることになってしまう。

僕はこの登場人物が恥をかくシーンがとても苦手だ。

やめてくれ!と大声で叫びたくなる。
グロテスクな殺人や拷問シーンであれば薄目を開ける程度で我慢できるのだけれど、この作品で彼女が恥をかくシーンについては不憫でならず丸ごとスキップしてしまった。

こういうシーンは自分が今までかいてきた恥、奥底に隠していた黒歴史のような記憶無理矢理に引きずり出してきて思い出させてくるから耐えられない。
グザヴィエ・ドランの『マミー』(2014年)なんかはシーンのほぼ全てがそういうシーンだから、完全に心を折られてしまう。悪趣味だと思う。

では恥をかかなくするためにはどうすればいいのかというと、教養を身につけることもそうであるが、一番手っ取り早い卑怯な方法は死んでしまうことだ。

死んでしまえばこれ以上傷つくことも、人から笑われるような失敗をしなくても済むからである。くだらないことで泣いたり笑ったり怒ったり、毎日ご飯を食べたり働いたりすることからも解放される。

しかし僕はエスティのように、人と関わり合ってみっともない生き恥を晒しながら生き続けようとする人の方が立派で、魅力的だと思う。

死んでしまったり、知識だけを身につけて自分を他人とは違う高みに置いてぬくぬくと思想の中で暮らそうとしている人よりも、
地べたを這いつくばって泥を啜ってでも生き抜こうとする人のために、自分の時間を使っていきたいと思ったりする。

しかしそうすると、僕たちは必然的に傷だらけになってしまう。
そんな傷を塞ぐために、家族や友人たちが存在しているのだろう。それは万能薬のようなものだ。

僕らは互いに心配しあって励ましあって世話を焼きあってちょっとずつ心の傷を癒しあっていく

エスティは確かに大きな恥をかいて傷ついてしまったけれど、彼女にはその傷を癒してくれる友人たちを得ることができたので、なんとか生きていけるだろうと思う。

そういえば、エピソード3でエスティたちがクラブ遊びをするシーンがあるのだけど、そこでライブを披露していたドイツのcatnappというアーティストがめちゃくちゃかっこよかった。惚れた。

ちなみに見出しの下に挿入した女性はエスティではなくてcatnappである。

早く三密の空間で踊りたい。


Netflix『美味の起源』(2019年)

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中国は広東省、潮州市の郷土料理を1話につき1つずつ、計20種類を次々に紹介していくドキュメンタリー。

どの料理も美味しそうすぎて画面を殴りつけそうになる。潮州料理を食べるためだけに中国に行ってやろうかと本気で考えたくらいに魅力的な料理の数々が、地域に住む料理人や漁師・農家と共に映し出されていく。

生きたカニを醤油とニンニク・コリアンダー・唐辛子で漬け込んだカニのマリネや、川魚を塩だけで2年間自然発酵させて作る魚醤、4時間以内に解体した3歳以下の仔牛肉を牛肉ダシでしゃぶしゃぶにする牛肉火鍋etc。

コメンテーターは登場しないし、ナレーターも基本的には、食材の特徴や調理による変化を化学的に説明するだけ。取材される人々もインタビューに答えたりせず、ただ調理する様子が淡々と流されていく。

それだけなのにめちゃくちゃに面白い。

単純に料理が美味しそうというのもあるが、料理や食材を通じて異国の文化やその歴史を知ることができるからだ。料理は生活として根付き、文化として継承されていく。
その様子が生き生きと描かれているからこそ、面白いのだ。

料理を紹介していく途中で、ナレーターがさらりとこんなことを言った。

言葉と味覚はよく似ている。
それらは故郷を離れることができない。

うまいこと言うなあと感心した。

往往にして旅の楽しみは食事の楽しみであったりする。
自分には馴染みのない現地の食事を通じ、他の誰かの故郷に対する新鮮な発見や驚きを得ることができる。

僕が半年前に遊びに行った台湾で真っ先に思い出せるのも、コンビニで売られていた烏龍茶の煮卵や、アヒルで出汁をとった屋台の麺料理、豚の血を固めた生臭い豆腐に五香粉で味つけしたスペアリブの唐揚げ、食事のことばかりだ。
あの現地の味を思い浮かべると、なんだか胸が締め付けられてしまう。

とびきり美味しかった訳ではないけれど、台湾に行かなければ食べられない味だと言う事実が、それらの料理を特別なものにさせてしまった。
もう二度と会えない友達を思い浮かべた時の感情にも似ている。

どうして旅先で出会った異国の食事がノスタルジックな感傷をもたらしてくれるのかというと、
自分の故郷を離れ、誰かの故郷を訪れる時、必ずさよならが約束されてしまうからだ。

そして自分の故郷は一つしかないけれど、誰かの故郷は誰かの数だけ存在している。
そう考えると人生は、たった一つのおかえり無数のさよならによって成り立っているのだと言えるのかもしれない。

一度切りのおかえりを言われる前に、僕はあとどれだけの人たちに、さよならと手を振ることができるだろうか。

全然感傷的なドキュメンタリーじゃないのに意味のわからないところに着地してしまった。



Netflix『覗くモーテル』(2017年)

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ジェラルド・フーズ。
窃視症の彼は他人のセックスを覗き見るためにモーテルを購入、年間2~3,000人の性行為を覗き見ることを30年近くライフワークとしてきた。

この作品はそんな彼と、彼の半生を本として書き上げようとするジャーナリスト、ゲイ・タリーズの取り組みを取材していったドキュメンタリーである。
もちろん、実話である。

あらすじを読むとジェラルド・フーズという性犯罪者の心の闇を解き明かしていって、その異常さと薄気味悪さを楽しむアンビリーバボーのような作品だと思うだろうが騙されてはいけない。

これは二人の出会いと友情、それに亀裂を入れてしまった出来事と、儚い別れを描いたおじいちゃんたちのちょっぴり切ないリアリティドラマだ。

まず、ジェラルド・フーズ。
恰幅が良く、芳醇に蓄えた口ヒゲといかついサングラスが良く似合う親分タイプのおじいちゃん

「30年間バレずに毎日人のセックス見てたんだぜ?!俺ってすげえだろ!」と話を盛りに盛って自慢する様子は、昔の武勇伝を語る痛い人そのものである。

でもいざ実名を出して自分の悪行が発表されるとなると、急に弱気になって俯いてしまったりする。かわいい。

次にゲイ・タリーズ。
鶏ガラのようにガリガリで、いかにも神経質そうで気難しそうなおじいちゃん

毎日オシャレにスーツでキメていて、著名なジャーナリストであることを誇りにしながら長々と講釈を垂れたりする。飲み屋で捕まったらめんどくさいタイプの人である。

ジェラルドの話の矛盾に気づきながらも、功名心のために見て見ぬフリしてしまって結果的に自分の首を締めることになる。かわいい。

一番可愛かったのは以下のシーン。

ジェラルドはおしゃれに興味がなく、たいていの場合小汚いTシャツやサンダルで過ごしているのだけれど、唯一の友人であるゲイが遠方からはるばる会いにきてくれると知って、自宅にも関わらず淡いピンクのYシャツと濃いピンクのネクタイにグレーのセットアップを引っ張り出してきてゲイのように服装をキメてから彼を出迎える。
とてもかわいい。

おじいちゃん映画については映画ブロガー?のナイトウミノワさんが明るい。

彼女は『いとしのおじいちゃん映画 12人の萌える老俳優たち』(2016年)という軽妙な本も出している。
映画の楽しみ方も、いろんな切り口があるのだと学ぶことができて良い。



漫画『火の鳥 鳳凰編』(1969年)

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中学生になるまで漫画の単行本を買うという習慣がなかった僕が、小学生の頃に暇つぶしに何度もなんども繰り返し読んでいたのは父親が集めて家に置いてあった手塚治虫あだち充水島新司といった作家の漫画たちだった。

手塚治虫で一番好きだったのはブラックジャックで、全242話のあらすじくらいなら今でも全て思い出せる程読んでいたのだが、一番心に残っているのはこの火の鳥の鳳凰編である。

火の鳥は仏教の輪廻転生をテーマとした作品で、○○編と名付けられてそれぞれが独立した複数の作品群から成り立つオムニバスだ。

永遠の生命を持つ火の鳥を巡った登場人物たちの欲望愚行が繰り返し繰り返し執拗に描かれている。

舞台設定は様々で、時間軸で言えば紀元前1000年から西暦3400年まで、空間軸で言えば日本からエジプトギリシャに宇宙まで多岐にわたっている。

主要な登場人物たちはそれぞれの子孫や祖先として登場するのだが、いつも似たような運命に翻弄されていく。そして彼らは大抵の場合、生まれ変わっても救われることはなく嘆き苦しみ悩みながら死んでいってしまう。

なぜもう一度火の鳥を読もうと思ったのかというと、小学生の自分と現在の自分でどれほど変化があったのか知りたかったからだ。

あの時覚えた興奮や残った疑問に対し、15年後の自分なら答えられるかもしれないと感じたけれど、結論自分は何も変わっていなかった。27歳の脳みそは12歳の小学生と同じ脳みそだった。

同じところで怒りを覚え、同じところで疑問を抱き、同じところで泣きそうになってしまった。自分の成長に期待してしまっていた自分を情けなく思った。

きっと人、少なくとも僕は火の鳥で描かれる登場人物たちのように、階段を登るように成長することなんてできずに、何度もなんども同じところをぐるぐると歩き回るのだろう。
今までもそうだったし、これからもそうなのだと思う。

ただそれだとあまりにも虚しいだけなので、その円環は螺旋状に上昇していると信じることにする。



学術書『人口減少社会のデザイン』(2019年)

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「少子高齢化のフロントランナーとして世界をぶっちぎっている日本が、2050年になっても崩壊せずにうまくやっていくためにはどうすればいいんでしょうかねえ?」ということを、街づくりやら社会保障制度やら倫理やら政治やら様々な視点から紐解いていく本。
京都大学の教授が書いているらしい。

この本が扱っている問題意識と、その解決のためには地域コミュニティや社会思想の変革が必要だという結論が、僕が書いた卒論ととても似ていたため読んでみた。
似てるといっても自分の卒論はやっつけ仕事で参考文献は週間プレイボーイのリリーフランキーのコラム、という有様だったので、ちゃんとした研究書を読めて嬉しく思った。

この中で、生死観の変革を訴える部分がある。
「直線としての人生イメージ」から「円環としての人生イメージ」へ思想を変えてはどうか、というものだ。

著者はこう訴える。

大方の人は、人は生まれたら階段を登るように成長していって、最後はそこから垂直に落下して死ぬ、という直線的な人生イメージを持っているけれどそうではないかもしれない。
死とは生の電源を切ってしまう終わりではなく、円状の人生を周りきって"生まれた場所に再び還ること"なのではないか。
生と死は循環したプロセスの一部なのだ。


この箇所を読んだ時、僕は大きく頷いたと共に前述の火の鳥を思い出した。
ここで提唱された概念は火の鳥で描かれた仏教の輪廻そのものであるからだ。

そこで、僕はずっと15年もの間、無意識に火の鳥的な価値観に同調してきたがための疑問や違和感を抱いたり、それに関連する本を選びとっていたのだと気づいたりした。

最初に火の鳥に教育されて考え方の土台を作らされたのだから、15年以上経ってそれを読み返しても同じ感覚を抱くのは当然のことだったのである。原体験というものは恐ろしい。

こういう学術書のいいところは、結局漫画と同じことが書いてあってもなんだか崇高な人間になれた気がするところだ。電車の中でドヤ顔して読めるのも良い。2000円出して買う価値がある。

プレイボーイを読んでいても賢そうに見えるブックカバーがあれば絶対買うのになあ。

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