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21歳の私は、内定を蹴って初めて「働く」ことと向き合った

「夢は叶わない。大人なんか嫌いだ。本当は好きになりたいはずなのに。そうさせてくれない社会が心底憎い。」21歳の私にそう思わせてくれたきっかけは残念ながら写真を通した出会いでした。

好きな写真を少しでも自分のそばに置いておきたくて、カメラを使う仕事に就きたいと思う一心で就職活動を進めてきた。そのなかで私は、「ここで働きたい!」と思える会社に出会うことになる。とんでもないドラマのようなインターンシップ3日間を経て、高熱にうなされながら入社試験レポートを仕上げなんとか内定をいただいた。けれど、その会社で働くことはできても、生きてはいけないことを内定後に知ることになる。

「このお給料ではとてもではないが生計を立てていくことはできない…」

お給料の他にも、社会人第一歩を踏み出そうとする私にはクリアできない条件が多々あった。会社がブラック、ということを言いたいのではない。私自身にその会社のお仕事で生計を立てていく力が足りなかった、ということなのだ。私自身がこの仕事を選ぶのに必要だったのは、社会人としての生活の基盤がまずはあること、だったと私は思う。けれど、新卒でその会社に入る私に基盤なんてものがあるわけがない。それを必要とする会社が悪いわけでも、基盤を築けなかった私が悪いわけでもない。タイミングが合わなかっただけなのだ。タイミングだけが合わない。私には働きたい気持ちが強くある、会社には雇ってくれる気持ちもある。でも私が会社に必要としていたのは生活をある程度安定させる力、けれど会社が必要としていたのは生活がある程度安定した人。両者のタイミングだけが噛み合わなかった、運命のいたずら。しかし、このタイミングの悪さは、私を失望させるには十分だった。心から「ここで働きたい」と思えた会社に出会えたのに、「君に働いて欲しい」と思ってもらえた会社だったのに、それが叶わない。自分にはどうすることもできない壁が立ちはだかり、諦めざるを得ない状況だった。私は泣く泣く内定を辞退した。自分の力不足で諦めなければならないその状況がたまらなく悔しかった。それに、私をそうさせている社会がたまらなく憎いと感じた。その時の私の気持ちが、冒頭の言葉。


内定を辞退する前にも、たくさんの人に相談をした。友達、社会人の先輩、私の周りにいる大人たち・・・。私のバイト先の塾の室長は3月で異動になってしまったのだが、就職活動で四苦八苦する私の様子をみかねて、わざわざ会いにきてくれたりもした。そんなこんなで、いろんなアドバイスをもらう中でその中の一言にこんな言葉をくれた素敵な社会人の方がいた。

「話を聞いていると、君には助言やアドバイス、忠告までくれる人がたくさんいる。それが君の一番の財産だよ。」

私はこの言葉で、自分の周りの世界の優しさにもう一度気づけた。夢を見て叶えようとして、叶わずに打ちひしがれて、自分の力の無さやそうさせた社会や環境を憎んで腐った。けれど、そうじゃない部分があることに気づくことができた。挑戦を応援してくれる人、危険な道を歩もうとして頑固になっている私の身を案じて止めてくれる人、意見をくれてもなお私の意思を尊重していくれる人。そんな人たちが私の周りにいて、その温かさを感じることができる私はどれほど幸せなんだろう。


「写真を嫌いになりそうなのかもしれない」
そう思ってから気づいた。写真という存在があまりにも自分の生活に溶けこみすぎている。内定を蹴ってからしばらく、写真やカメラを見るたび私に写真という趣味が、私に腐る原因を与えたことを憎んだ。カメラを手に取った自分を後悔した。「写真なんて始めなければよかった」。写真を仕事にしているわけでもないのに、たかが写真が趣味なだけな学生が何を偉そうに。私だってそう思う。だけれど、写真さえ私になければ私がここまで思い悩むことはなかったのかもしれないという気持ちを見ないフリすることができなかった。日常の中で写真やカメラを見て心を痛める回数があまりにも多すぎた。心を痛める回数が多いことで私は気づく。いかに写真という存在が自分の生活に密接しているのか、写真という存在が私の中で大きなものになっているということ。それと同時に、思い出す。社会を憎み、腐る原因を私にくれたのも写真だったけど、こうやって周りの世界の美しさに気づかせてくれるのはいつも写真だった。


雨上がりの夕暮れの太陽が温かく優しいこと。

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晴れの日の絶景と言われる観光地は
曇っていても十分センチメンタルなこと。

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友達と食べるランチは格別に美味しいこと。

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そばにいる誰かの笑う様子は自分の心を軽くしてくれているということ。

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ご飯を記録することは、一緒に食べた人と過ごした時間を思い出せるようにするきっかけを作ることなんだってこと。

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皮肉にも、社会を憎むきっかけを与えたのも写真であったけれど、その一方で自分の周りを取り囲むものの優しさや美しさに気づかせてくれた。私の世界を色付けてくれているのは紛れもなく写真だ。特段めちゃくちゃ才能があるわけでもないし、ただただ好きなだけなのに、写真はこんなにも私の生き方を豊かにしてくれた。生きている世界が十分素晴らしいことを教えてくれた。

写真と向き合い直した私はこう思った。今の私は、「やりたいこと」を軸に就活するべきではなかった。まずは自分の生活基盤を安定させること、すなわち「やりたいこと」を考えるのではなく、「やりたいこと」を実現させるための土台を安定させる必要があったのだ。「写真が好きだ。カメラを使った仕事ができたらどんなに幸せだろう」という希望を持った。その気持ちに正直に就活をしたことを後悔はしていない。けれど、写真が好きだという気持ちを大切にしようとする気持ちがあるのなら、手段に固執することなくもっと大きくみて自分のやりたいことを実現させるルートを探る必要があったんだろうな、と今では思う。社会人としての基盤がまだ成り立ってない、それならまずはそこを安定させるべきだった。私はお金と関係なく生涯をかけて取り組んでいきたい「ライフワーク」よりも、お金を稼いで食べていくための「ライスワーク」に向き合うべきだった。

この本が、私に「ライスワーク」の大切さを教えてくれた。
夢を叶えるためのライスワークの重要性に気づかせてくれたのだ。ライフワークを最初から探す必要なんてなかった。ライスワークを重ねていく中でライフワークを探したり挑戦してみたりするのでなんら問題はなかったのだ。なりたい自分になるために必要なのはがむしゃらな努力だけではない。正しい努力だということだ。

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この本の著者である幡野広志さんは写真家だ。彼が周りの写真家と比べて違うところがあるとするならば、彼の書く文章は理解しやすいことと、がん患者であり、余命宣告を受けているということ。この本からは、私は苦しみに対する向き合い方だったり、優しさの伝え方だったり、誰かを大切にする方法をたくさん学んでいる気がする。彼のブログ連載は終了してしまったが、彼を尊敬する気持ちは変わらない。

①優しい人というのは、人の体や心の痛みを理解できる人。
自分でできる方法で、手を差し伸べることができる人。

自分の思って差し出した優しさが、意図しないうちに相手にとっての苦痛になっていた時のことを著者は「優しい虐待」と呼んでいる。著者はがんの宣告を受けてから、周りの人たちの無責任なアドバイスに困惑したり不快な思いをすることもあったことを述べている。

相手を慮ったうえで、自分のできる方法で手をさしのべることができる人が僕が思う、本当に優しい人だ。自分の思う優しさをぶつけるだけでは、優しくなれない。

人に優しくすることの難しさを、私はここで反芻した。「相手を慮ったうえで」行動することは思ったより難しいことに大人になるにつれて自覚する。私は、相手を慮ろうとして失敗した時のことをこの文章を読み進めていく上で思い出した。

私自身の性別が女性ということもあってか看護師を目指している友人が周りに多く居る。このご時世、危険も伴うその仕事や実習に彼女たちの身を案じる機会も自然と増えた。私の身の回りには医療職に携わっている人はそう多くなかったため、医療現場の逼迫はニュースで報じられてもどこか遠い世界の話のようだったが、その医療現場にいつか友人も、と思えば彼女たちの健康を案じずにはいられなくなった。そんな中、身も心も追い込んで実習に取り組む友人のうちの1人に「頑張れ」と声をかけ続けていた時期があった。今思えば、十分頑張りすぎていた彼女にその言葉をかけ続けていた私はただの自己満足でしかなかったな、と心の底から思う。その身も心も削っていた友人がこう言っていたことを思い出す。

看護師が、痛みに耐えている患者さんに「頑張れ」と声をかける時。
それは患者さん自身を励ましているのではなく、患者さんの痛みにただ居合わせることしかできない、自分自身を励ます言葉。

きっと私もその例え話に出てきた看護師と同じだっただろう。友人に「頑張れ」と声をかけた時の私は、その場に居合わせる自分を励ますこと以外に、もっと彼女を慮った言動をするべきだった。彼の「優しい虐待」という言葉から出てきた回想は皮肉にも、自分自身が傲慢に優しさを押し付けた記憶だった。寄り添えなかったこの痛みが、この傲慢さを拭い去るきっかけになってくれるように、私は「優しい虐待」という言葉が教えてくれた自身の弱さと向き合っていかなければならないだろう。

②いくら好きなことでも、自分のすべてを注ぎ込むのはやめた方がいい

私の親戚の伯父さんの口癖は「なんでものめり込むとろくなことがない」。
まさにその通りだと思った。熱中できるほどのものに出会えた運命はとても素敵なことだけれど、熱中するが故に周りが見えなくなって近くの人の優しさを蔑ろにしてしまったり、自分の立ち位置が見えなくなってしまうことはきっと何もいいことがない。

「好きな仕事」であっても、それがどのようなものでどう働くべきかを、冷静に判断してほしいと願っている。

「働く」ということでなりたい自分に近づこうとすることはいいことだけど、自己実現の大前提としてまず生きていかなければならない。働くことは生きていくことと隣り合わせなのだ。生活が疎かになるような働き方をファーストキャリアで選ぶのはそもそも働くことを知らない今の私にはリスクが高すぎるし、生きていくために働いたことがない私には生活も仕事も共倒れすることがあるという危険性を孕んでいる。危険な道を選ぶことは必ずしも悪いことばかりではないけれど、自分を壊してしまっては意味がない。幸せになるために選んだ仕事が、自分自身を破滅させてしまってはなんのために選んでいるのかわからない。まずは自分自身がチャレンジをできるように、基盤を作ろう、と思ったのだ。そのためにまず必要なのはライフワークではなく、ライスワークってワケだ。

③草食系でも肉食系でも、食われちゃいけない。

就職活動をしていれば、うっかり大人の都合にハメられそうになったこともある。どんなに斜に構えても、擦れたことを言っていても所詮は学生あがりなのだ。私の単純なところや、どMを疑われるほどの根性を利用しようとする人が出てきても当然だと私は思う。冒頭部に戻って「大人なんか嫌いだ!」というキッカケに至る出来事だってあったワケだがこのお話はまた今度。

知識と知恵を蓄えて、自分の頭で考えて、自分で戦わないといけない。さもなくば社会にしゃぶりつくされてしまうだろう。

どんなに私自身が未熟で単純でも、私の人生の引導は誰にも渡してはならない。誰かの人生に巻き込まれていい理由なんてない。ただの誰かにとって都合の良いコマに成り下がってしまわないように、私は自分自身を高めていく責任があるのだ。

④お金について子どもに教えるのは、親の役目なんだと思う。

我が家には、母がいつも口にするお金に関する家訓がある。

その1:「お金が全てじゃないけど、お金も必要」
「金が全てだ」、なんて口汚いことは言わないものの母は生きていくことにはお金が必要であることを繰り返し私に教えた。急ぎの入り用で中古車を母の知人から買い付ける機会があったのだが、「おいあずさ。何をするにも金がいる、よくみとけよ」と言って札束を計上する場面をその知人に見せられたことは当時小学生の私にとってはかなり衝撃的だった。その時、驚いた顔をしていた私に母が告げた言葉が、上の言葉。まさに現実。私が経済学部に所属している所以はお金の必要性を重々承知しているからなのかもしれない…

その2:「蛇口を捻って水が出てくるのは、水道代を納めているから。愛があってもお金がなければ水すら使えない」
学校でよく出される命題、「あなたは愛とお金のどちらか1つと言われたらどちらを選びますか?」という命題を素直に母にぶつけたときに帰ってきた言葉だ。至極正論である。キレイゴトだけでは生きていけない、生きていくにはお金が不可欠なんだということが端的に表された一言で私は気に入っている。

その3:「お金で全てが買えるわけではないけれど、お金があれば避けられる揉め事がある」
恥ずかしながら我が家では、夫婦喧嘩のもとを辿ればお金が関わっていることが多い。お金があれば解決できることはいくらだってある。お金がなんでもできる魔法のツールであるとは限らないが、お金が私たちにもたらしてくれる自由は必ずある。その自由が争い事を解決してくれること、心に余裕をもたらしてくれることは認めざるをえない事実だ。心に余裕がなくなれば、争いは増えるし、効率よくお金を稼ぐための手腕を検討することだってできなくなる。「お金の余裕は心の余裕」という言葉もよくできた言葉だと私は感じている。

と言った価値観の上に存在するのが今の私。お金が全てだとは思わないが、お金がなければ生きていけないのが世の情理。そんな価値観の形成には、きっと母の考えが大きく影響してるんじゃないのかなあ、と思っている。

とどのつまり、やりたいことを探すことも大事だけどそれ以前に生きていくにはお金が必要だし、生きていくことを疎かにしてはやりたいことなんて成立しないさってことを私はこの本を読んで確認したような気がした。就職活動を進めていくうちに出た答えを、この本で再確認した、というカタチ。ライスワークを探して自分自身を整えて、ライフワークを探したい。それが今の私の、思う、目標に対する適切な努力なんじゃないのかな、という結論だ。間違っているのかもしれないけど、それはまた手痛く間違えた時に考え直すことにしよう。


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