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William Payne Stewart(ペイン・スチュワート)

 今年全米オープンが、パインハーストNo.2で開催されます。
 パインハーストで開催される全米オープンはこれで4回目です。
 ドナルド・ロスが1907年に設計し、世界の有名ゴルフ場ベスト100の中でも必ず上位に入る名門コースです。
 名コースではあったものの、なかなかメジャー開催とは縁遠かったのですが、ちょうど四半世紀前の1999年に初めてパインハーストで全米オープンが開催されました。
 そしてファンの記憶に残る”名勝負”が繰り広げられました。
 リーダーボードには新進気鋭のタイガー・ウッズ、悲願のメジャー初制覇を目指すフィル・ミケルソン、当時目覚ましい勢いで世界No.1まで駆け上がったデビット・デュバルなどがひしめいていました。
 その選手達を押しのけ優勝を決めた直後に雄叫びをあげたシーンは、四半世紀を過ぎても色あせることなくファンの記憶に残っています。
 その名勝負を演じた主人公は、ペイン・スチュワートです。


〇スチュワートの生い立ち

 ウィリアム・ペイン・スチュワートWilliam Payne Stewart, 1957年1月30日 - 1999年10月25日)は、アメリカ・ミズーリ州スプリングフィールド出身のプロゴルファーである。メジャー大会に3勝を挙げた実力者だったが、1999年の全米オープン優勝からわずか4ヶ月後に、飛行機事故のため42歳で急逝した。PGAツアーで通算11勝、国際試合で合計7勝を挙げる。
 4歳からゴルフを始め、「ミズーリ州アマチュア選手権」で優勝経験のある父親から手ほどきを受ける。
 1979年にプロ入りしたが、この時はアメリカPGAツアーの「クオリファイイング・スクール」(シード権獲得への出場資格試験のこと、通称 QQ-School)を通過できなかった。そのため2年間「アジアン・ツアー」を回り、そこで2勝を挙げる。その期間中にトレーシー夫人と結婚。
 1982年からPGAツアーに参戦を開始し、同年の「クワッド・シティ・クラシック」でツアー初優勝。7年後の1989年に、全米プロゴルフ選手権でメジャー大会初優勝を達成。1991年に全米オープンでも初優勝を果たし、メジャー大会2冠王となった。この時はスコット・シンプソン(アメリカ)とのプレーオフを制している。

Wikipedia「ペイン・スチュワート」

〇愛妻との馴れ初め

 まだPGAツアーで出場できなかった頃、アジアツアーを転戦していた時期での一コマです。
 マレーシア・オープンであるオーストラリア人選手に帯同しプロアマのパーティーに参加したときに、トレーシーさんが「あら、この人かっこいい」と感じ、アジア転戦で久々にブロンド姿の女性を見たスチュワートもトレーシーさんに一目ぼれ、そこからお互いの意気が合い結婚に進みました。
 トレーシーさんの家族は父は警察官、兄・マイケルはオーストラリアで有名なプロゴルファー。養成所時代の盟友には母国の英雄、グレッグ・ノーマンがいます。

〇”映えるゴルファー”の先駆者

 ペイン・スチュワートといえば、いつもプレーするとき着用するニッカボッカとハンチング姿が印象的でしょう。
 星条旗がデザインされたものも有名ですが、スチュアートはアメリカのプロスポーツリーグの一つ、NFL(ナシュナル・フットボール・リーグ)と契約し、NFL全チームのユニフォームをイメージしたウェアを毎試合着用していました。
 マイアミ・ドルフィンズをイメージした、アクアとオレンジのウェアを、インスタグラムにアップしたらライクが相当集まることでしょう。
 ある日スチュワートがボロシャツとスラックス姿で練習をし、終わって引き上げましたが誰もファンが寄って来ませんでした。
 スチュワートがポロシャツとスラックスを着ているなんて思っていなかったというエピソードがあるくらい、ニッカボッカとハンチング姿がファンの頭に焼き付いていた証拠です。

〇悔しかった逆転負け、それをバネに”リベンジ”へ

 久々に優勝争いを演じた1998年の全米オープン。
 3日間首位を守り7年ぶりの全米オープン制覇に、スチュワートの気持ちが高まってきました。
 しかし最終日の12H(Par4)、ティーショットがディポットに入っている目土の上にボールがあった不運を境に、これまでのスチュワートの勢いが止まり逆に追い上げてきたリー・ジャンセンに屈し、7年ぶりの優勝はお預けとなりました。
 ジャンセンは93年にも優勝し全米オープン2勝目となりましたが、2回とも2位はスチュワートでした。
 逆転負けで気力を失いかけそうになりましたスチュワート、もう自分は勝てないのではと落胆していました。
 しかし翌年失意からの”リベンジ”を達成すると、この時いったい誰が思ったことでしょうか?

〇用具契約フリーからの再出発

 用具契約を結んでいたスポルディングから、フリーの身になった1999年シーズンのスチュワート。
 プロ当初に立ち返るという意味もあってか、タイトリストのドライバー、ミズノのアイアン、そしてタイトリストのボールを使用することに。
 ペブルビーチプロアマ開幕前日にシーモアのパター(30ドル)を使うと決めたら、それが効果覿面。荒天による54Hの短縮競技になったものの4年ぶりのPGAツアー優勝を挙げました。
 その後ホンダクラシックやMCIヘリテージ(当時、現・RBCヘリテージ)で2位に入るなど、復調気配を見せているスチュワートでした。

〇前週のミスカットをチャンスに変えた、チーム・スチュワート

 全米オープンの前週、テネシー州で行われた試合で結果を出せずに週末予定が空いたことを機に、スチュワートとキャディであるマイク・ヒックスはパインハーストに乗り込み、コーチのチャック・クックとコースの視察を開始しました。
 翌日にはスチュワートのメンタル面を指導するコーチ、リチャード・コーブ博士も同行しました。
 そこでヒックスはコーブ博士に「(スチュワートが)目標を明白にしないでショットやパットをしているようだ」と話し、博士が本人に問いただすと「そうだ、ショットの目標を定めないうちに打っているんだ、プレルーティンで目標を定めていなかったんだ」という小さな”気付き”を得られました。

〇もともと集中できない夫を助けた妻・トレーシー

 スチュワートはきれいなスイングアークを持ち、テンポもマネしたくなる選手の一人です。現在で言えばジェイク・ナップに近いでしょうか。
 しかしあれこれ他の人のマネをしたくなるため、ショット前のルーティンが定まりませんでした。
 そんな中トレイシーは、夫が心の難病:注意欠如・多動性障害(ADHD)で治療が必要であることや、パッティングで頭を動かさないようにすべきことなど、単に妻としてというだけではなく、メンタルコーチとしてのアドバイスを夫にしてきました。
 家族との時間が最も大切という夫の優先順位ゆえか、トップ10入りしてそこそこの賞金を稼げればいいという戦い方をしていた旦那を発奮させたのも妻でした。

〇「WWJD」のリストバンドに込められた意味

 スチュワートは「WWJD」という言葉が書かれたリストバンドを手首に付けてラウンドしていました。

 「What would JESUS do?
 (イエス様は何をするだろう?

 試合中に何が起ころうとも、イエス様だったらどうするのだろう。そしてその対処はこれでいいのかと自問し、自分を変えるきっかけにする。
 自分の欠点を包み隠さず見つけ出し、それを克服しようという長い道を夫婦ともに歩んでいるようでした。

〇2年連続最終日最終組、強敵が揃う優勝争い

 小さな”気付き”が見つかったのが奏功したか、3日間を終了し1アンダーとただ一人アンダーの世界にいるスチュワート。
 これを追いかけるのはメジャー初優勝を狙うフィル・ミケルソン。
 ただこの時ミケルソンは、エイミー夫人が第一子誕生を間近に控え、最終日に出産するなら立ち会う状況で棄権もあり得ました。
 その下にはビジェイ・シンとタイガー・ウッズが控え、誰が優勝するのかファンは胸躍らせる試合展開となりました。
 狭いフェアウェイ、深いラフ、刈り込まれたグリーン周り、そして硬く速いアンジュレーションのあるグリーン。
 初開催でも全米オープンにふさわしい会場に整えられた、パインハーストでの最終日が始まりました。

〇スタート前とっさの思い付き、”ハサミを持ってないか?”

 最終日は霧の中での戦い、時より小雨が降るコンディションです。
 この時期は涼しいながらも湿気の多い気候であるパインハースト。最終組がスタートする前に、スチュワートは大会のあるボランティアにこんな要求をしていました。

誰かハサミを持っていないか?

 スタート前になっていきなりハサミが必要になることって何なんだとボランティアをはじめ皆が不思議がってはいたものの、スチュワートの要求通りハサミを貸しました。
 するとスチュワートはそのハサミを使い、周囲の人たちでは考えられないことをしたのです。

 なんとレインウェアの袖をハサミで切り、スリーブレスのレインウェアをスチュアートは着用しました。腕の部分はボロシャツの袖が見え、当時としては斬新な姿です。

 レインウェアをそのまま着こんでしまえば湿気で中のポロシャツが蒸れてしまい気持ちよくプレーできない、レインウェアの袖がスイングするときにこすれ合って気になってしまう、これらの理由があったから思い切った決断を下したのでしょう。

〇壮絶な最終日、1年越しの”リベンジ”達成

 そしていよいよ、最終組がスタートしました。
 スチュワートとミケルソンがそれぞれバーディーとボギーを繰り返す中、先にラウンドするタイガー、ビジェイが首位に肉薄したり並んだりするという大激戦。
 タイガーが16H(Par4)でバーディーを奪いイーブンパーに戻ったときのギャラリーの大歓声は、トーリーパインズに響き渡り最終組の2人に相当な重圧をかけました。
 でも続く17H(Par3)でタイガーはボギーを叩き一歩後退、18H(Par4)では礼拝堂の鐘が鳴る中でのバーディーパットはわずかに外れてここで終戦。タイガーの全米オープン初優勝はお預けとなりました。
 タイガー、ビジェイが1オーバーで終了し、1打リードしていたミケルソンが16Hでボギーを叩きイープンパーで最終組の2人が並び、いよいよ優勝争いは最終盤に。
 次の17H、最終組の2人は圧巻でした。
 オナーとなったスチュワートが6番アイアンで放ったショットはピンまで1.2m、ミケルソンは7番アイアンで放ったショットはピンまで1.5mというスーパーショットの応酬。
 しかしこのときショートパットに難があったミケルソンはバーディーパットを外したのに対し、スチュワートはきっちり決めてバーディー。

 最終日のスタート前、ヒックスはスチュワートが優勝するための条件をこのように考えていました。

最終日4つ(以上の)バーディーを奪えば勝てる

 ヒックスが当初目論んでいた1日4バーディーをこれで達成し、ミケルソンに1打差をつけ最終18Hに向かいます。
 しかし最終18H、スチュワートのティーショットは右のラフに入ったのに対しミケルソンはフェアウェイをキープ。
 雨で重くなったラフからはグリーンを狙うことはできないため、スチュアートはレイアップを選択。
 対するミケルソンはカップまで7mに2オン、そしてスチュワートの3打目はカップ手前4.5mの位置につけました。
 先にミケルソンがバーディーパットを打ちますが、決めることはできずにパー。スチュアートのパーパット次第となりました。
 スチュワートのパーパット、真っすぐカップに向かってボールは転がり、そして沈みパーセーブ。
 8年ぶり2回目の全米オープン優勝が決まった瞬間でした。

〇優勝後、家族の大切さを説く「いいか君は父親になるんだ」

 パーパットが決まった瞬間、これまで感情を表さなかったスチュワートはここで一気に表情を爆発。右足だけで立ち左手にパターを持ち右手でガッツポーズ。そしてキャディのヒックスと抱き合って喜びを分かち合いました。
 大ギャラリーが歓声を上げ続ける最終ホール、1打差で涙を呑むも表情は晴れやかなミケルソンがスチュワートを祝福しようと近寄ったとき、スチュワートはミケルソンの顔を両手で寄せ、声を掛けました。

いいか君は父親になるんだ、父親になること程素晴らしいものはない

 ”全米オープンの最終日は特別なことがない限り、父の日とする”という慣例があります。
 初めての子供を授かるかもしれないという状況の中、棄権も覚悟したミケルソンとこうして好勝負を演じてきたことにスチュワートは感謝し、そして家族が増えることの喜びやこれから父親としての責任をミケルソンに伝えたかったのでしょう。ミケルソンも快く応じました。
 そして翌日、エイミー夫人は長女アマンダを出産しました。
 もしスチュワートのパーパットが外れ、翌日18Hのプレーオフ(※)になってしまったら、ミケルソンは棄権せざるを得なかったことでしょう。
(※)当時の全米オープン規定では、最終日でも決着がつかなかったら該当者による1ラウンド18Hのストロークプレーで優勝を決めていました。

 表彰式のインタビューでこんなやり取りがありました。

ペイン・スチュワート
フィル、君には君自身の戦いが残っているし、それに打ち勝たなければならない。奥さんのエイミーが待ってるんだろ?君とエイミーに言っておきたいことがある。親になるってことは、それはそれは素晴らしいことだよ。ポケベルが鳴ったら、たとえ(全米オープンの)試合中でもエイミーの元へ駆け付けると君が公言しているのを聞いて、僕はとても嬉しかった。そう、人の親になるってことは、何にも勝る特別なことさ

フィル・ミケルソン
今日はとても素晴らしい1日でした。もちろん結果は私の期待に反するものとなりましたが、ペインが決めた16番と18番のパットを見て、ペインこそがチャンピオンに相応しいと感じました。ペインは合衆国が誇る、ナショナル・チャンピオンです

 メジャーという大舞台の中、愛妻が初めて子供を授かり今日明日にでも出産する。大記録を打ち立てるよりも初めて父親になるほうがもっと素晴らしい事である。スチュワートの人柄を垣間見る一面でした。

 また練習ラウンドに付き添っていたコーブ博士も、全米オープン優勝によって彼のメンタルが戻ってきたことに舌を巻いてました。 

〇ライダーカップでの活躍、そして突然の”旅立ち”

 西暦が奇数年だったこともあり、この年は欧米対抗戦のライダーカップが開催される年でした。
 前回前々回とカップが欧州に渡り、このままではいけない米国。
 全米オープン優勝のスチュワートも代表に選ばれました。
 最終日前までは欧州がリードしていたものの、シングルスマッチで米国が逆襲に転じ、ライダーカップ奪還に成功しました。
 スチュワート自身目立った活躍はなかったもののチームのムードメーカー役を自ら買って出てチームを鼓舞し、カップを奪い返せたことに本人が興奮したことは想像に難くありません。

 ライダーカップが終了し、PGAツアーも最終戦のツアー選手権を迎えるのみとなりました。
 テキサス州ダラスのチャンピオンズGCで開催されるため、スチュワートはフロリダ州オーランドからチャータージェット機で会場に向かいました。
 しかしここで”悲劇”が起こってしまうのです。
 スチュワート達を乗せたジェット機が管制官の無線に応答せず、追跡調査を行ったところ、サウスダコタ州アバディーンでジェット機が墜落していたことを確認、スチュワートを含む4人の乗客と2人の操縦士全員が落命するという事故が発生しました。
1999年リアジェット35墜落事故

 スチュワートの訃報を受け2日目の中止を決定し、ツアー選手権出場選手の大多数が追悼式に参列しました。

〇ディフェンディングチャンピオンがいないペブルビーチ

 西暦2000年のミレニアムイヤー、そして第100回という記念すべき全米オープン。会場はジャック・ニクラウスやトム・ワトソンの優勝シーンがファンの記憶に残っているペブルビーチ。
 本来ならば”お祭り騒ぎ”になる大会になったことでしょう。

 しかし本来大会に出場するはずだった、ディフェンディングチャンピオンはもう天国に旅立ってしまいました。
 大会前にスチュワートの功績を称えるという意味で、早朝に追悼式を再び実施しました。
 無事に追悼式を行ったのですが、タイガーが参列していないことが分かりコースに現れたタイガーを直撃、なぜペインの追悼式に参列しなかったんだと質問しました。
 その質問に、タイガーはこう答えました。

ペインのことについてはいつも追悼している、丁度追悼式の時間に僕は近くをランニングしていたが、そのときでも彼を追悼していた。一刻たりとも忘れたことはない

〇スチュワートアワード創設

 スチュワートの父はがんの為この世を去りました。
 ベイヒルクラシック(現アーノルド・パーマーインビテーショナル)で優勝した賞金全額をがんの治療施設に寄付しようとしたスチュワート。
 しかし夫の行動に対しトレーシー夫人は、他の選手達が苦々しく思っているんじゃないかと心配しましたが、杞憂に終わりました。
 困っている選手や団体に寄付をするという行為が、次第に広まりました。

 PGAツアースローガンに「These guys are good」
がありました。
「こいつらいい奴だぜ」と砕けた感じですが、プレーだけでなくチャリティーなどの社会貢献もしているよということをファンに伝えています。

 コースの中ではプレーに励み、コースの外では社会貢献などチャリティー精神に溢れた選手を表彰する、ペインスチュワートアワードが2000年に創設され、トレーシー夫人と2人の子供がプレゼンターを務めています。

 また選手としてこれまでの実績と社会貢献が認められ、2001年に世界ゴルフ殿堂に入りました。

〇”名相棒”のその後

 飛行機事故で主が突然いなくなったという一報を、ツアー選手権の会場で聞かされた帯同キャディのヒックス。
 その後スチュワートをメジャー優勝まで導いた実力を買われ、ボブ・エステス、リー・ジャンセン、スティーブ・ストリッカー、スペンサー・レビンの帯同キャディを務め、2023年6月にキャディを引退し、現在はテネシー州キングスポートに居を構えています。
 そしてイベント会社から講演の依頼を受け、現在に至ります。
 ヒックスは4人の子供に恵まれ、次男ジェイコブはノースカロライナ州立大の男子ゴルフのコーチに就任、そして四男エステバンは将来、大学リーグ1部を目指すゴルファーです。

 今年が全米オープンがパインハーストで初開催から25年、ヒックスの元にはメディアが当時の思い出についていろいろと聞かれることでしょう。
 全米オープンの週になると、ヒックスは今でも「人生で最もエキサイティングだった全米オープンだ」と回想します。

この全米オープンにはいろいろなドラマがあった。デビット・デュバル、ビジェイ・シン、タイガー・ウッズ、そしてフィル・ミケルソンの上に間違いなく、当時42歳の優勝者がいたよ

〇パインハーストにペインの銅像、勿論”あのポーズ”

 パインハーストには銅像が何体もあります。
 コースの設計者であるドナルド・ロス、コースのマスコットにもなったパターを持った少年。
 そしてスチュワートが優勝したときのガッツポーズです。その銅像の横にはこんな文章が刻まれた銅板があります。
1999年6月20日、ペイン・スチュワートが15フィート(約4.5m)のパットを決め、第99回全米オープンのタイトルを手にした。まさに一瞬の出来事だった

 慈善行為を自ら行い、ツアー仲間や友達を思いやる兄貴分、そしてスマートなスイングに粋なファッションセンス。
 どれを取っても”カッコよかった”ペイン・スチュアート、ファンはこれまでもそしてこれからも忘れません。 

※引用並びに参考資料

〇ペイン・スチュワートが好きな理由(BAR72GOLFCLUB、FC2ブログ)

〇ペイン・スチュワートの飛行機事故から20年(BAR72GOLFCLUB、FC2ブログ)

〇メジャー・チャンプの恩返し(Doctor’sGate)

〇25 Years Later:Remembering Payne Stewart’s Dramathic U.S.Open Title(USGA)

https://www.usopen.com/2024/articles/25-years-remembering-payne-stewart-us-open-title.html


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