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「自分語り」をしていきたい。

わたしはnoteをはじめてこれまで記事を色々書いてきたが、その記事はどれも私自身に向けて書いている記事である。今回もそのことには変わりないが、あるひとりのnoterさんのことを想定してその人についての私の気持ちを書いていきたい。

先日、わたしは玄川さんの書かれた記事を読んでものすごく心を打たれた。

言葉が生きている。

そう感じたのだ。今まで文章を読んで味わったことのない感情だ。心を打たれてから玄川さんのnoteのむかしの作品も読み始めたのだが、文章が上手いとか、伝え方が上手いとか、それだけではない何かがわたしを惹きつけているのだと思った。


(わたしは書き手のプロではないので、文章の技術に関してはぜんぜん分からないし、玄川さんの文章もそういう技術があってこそ伝わりやすくなっているのかもしれないが)


その何かは分からないが、玄川さんの文章からは力強さも繊細さもかっこよさも美しさも伝わってくる。やっぱり言葉が生きているという表現は正しかったのかもしれない。

その何かが明らかになった(気がする)のはこの作品を読んでからだ。

ここでは、玄川さんの書いている文章はエッセイというよりはコラム寄りかもしれないということ。そして玄川さんは「自分語り」という言葉で自身の文章のジャンルを表していた。

そして最後の方にこんなことを書いていた。

「自分語り」に明確なルールはない。でも、ポイントとしてひとつ挙げるとすれば、「どこまで本音をさらけ出せるか」なのかもしれない。



ああ、そういうことか。ここでわたしは玄川さんの文章がなぜ読み手をこんなにも惹きつけていたのかが分かったような気がした。

本音をさらけ出しているから、本音をのせた言葉だから、生きてるように感じたんだ。

書き手の本音が、書き手の感情がのせられた言葉の持つちからがこんなにも強いのかと思い知らされた気がした。

だからこそわたしも、私の感情をのせた言葉を書いていきたいと思うようになったのだ。


そして「自分語り」という言葉にもとても惹かれた。わたしは何か専門的な知識があるわけでもないし、特別な仕事についているわけでもない。だから他の人にとって有益になるようなことは書けないと自覚している。

それでも私が感じたことなら、私が体験したことなら、私の言葉で書いていける。そう思うことができたのだ。

わたしには「自分語り」しかできないかもしれない。それでも「自分語り」ができるならnoteで書き続けられるかもしれない。

玄川さんの文章に出会って読む楽しさも、そして書いていく楽しさもこれまで以上に感じることができたし、自分の書きたいことを(上手くないながらも)自信を持って書くことができている。

いつもはノートに軽く下書きをして書いているのだが、今回は自分のこの気持ちのままに書きたかったので読みにくいところもあったかもしれない。それでもこの気持ちがこの記事を読み返した時のわたしに伝わっていれば嬉しい。

玄川さんほんとうにありがとうございます。


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