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私はなぜ書くのか【リトンのホームワーク】

今回は玄川さんのライティングサロン"written"からのホームワークについて私なりの答えを書いていこうと思う。


《“written”のホームワーク》
あなたはなぜ、書くのですか?
あなたの書きたい文章は、どんな文章ですか?


*見出し画像はライティングサロン"written"の画像をお借りしています。

私はなぜ書くのか?


私は自分自身を知るために書いている。


その理由を語るためにまずはわたしの人生の目標を記しておきたいと思う。

それは「他人の目を気にせずに自分らしく生きる」ことだ。人生の中で一番近くにいて一生そばにいてあげられるのは自分自身である。自伝本や自伝映画などで他の方の人生を生きたような気持ちになったり自分じゃない誰かになりたいなあと妄想することはできたとしても結局私は私の人生しか歩めない。


他の人が何をどう言おうとも私は私の人生しか生きることができない。


それなのに私は今まで他人からの批判に必要以上に敏感になっていたので他の人から見た私はどう映っているのかということを意識しすぎていた。

自分がやりたいことをしたり、話したいことを話すということよりも他人から見た私の印象を守るような行動をして他人から見た私らしい言動をすることを心がけていた。


そういう風に考えていたことを当時は自覚していなかったのだが私の意識が外に向きすぎていたことは確かだ。

しかし私が私の人生を生きているのならば他人の行動や言動を気にすることに時間とエネルギーを費やすのではなくもっと自分自身のために私の時間とエネルギーを使いたいという気持ちに変わってきた。


自分自身について考え始める中で私がいかに私自身のことについて無知であるかということを思い知らされた。


でもそれは絶望のようなネガティブな感情ではなく新しいことを知るときのようなワクワクとした好奇心が顔を出した瞬間だった。


私は自分の好きな食べ物が何であるかすらも分からなかった。好きな食べ物に関しては聞かれることや書かないといけない機会が多かったので万人受けするカレーやお寿司という答えをあらかじめ用意していた。もちろんカレーやお寿司も好きな食べ物には変わりないのだが私がカレーや寿司よりも好んで食べている料理もあるのではないかと考えたことは初めてだった。


でもただ単に考えているだけでは記憶が曖昧すぎて答えが出なかったので実際に食べている時に感じていることや考えていることを意識するようにした。そう、この時点ではまだ意識するだけだ。今まで私がどう感じるかということをあまり意識してこなかった私にとっては大きな一歩だったと思う。


好きな食べ物は私自身について考えることの入口に過ぎなくてゴールは「自分らしさ」について知ることだった。


「自分らしさ」とは「好きな食べ物」よりも曖昧な問いであるため何をもって「自分らしい」ということができるのか分からなかった。


家族や友達から「〇〇らしいね」と言われたことを思い出しながら外部の人から見た「私らしさ」について知ることができるのかもしれないと思った。


しかし私が私であるのならば私にしか知り得ない「自分らしさ」もあるのではないかと思い始めた。


そして私にしか知り得ない私の情報とは何かと考え続けた結果、それは「思考と感情」なのではというひとつの仮説に辿り着いた。


私の頭の中に浮かんでくる思考や心に浮かんでくる感情を観察することでどんな時に私は幸せに感じたりどんな時に私は怒りを感じているのかというようなことを理解しようとした。


そういう思考や感情を観察し始めて数ヶ月経った。数ヶ月もすると私自身の思考や感情のサンプルが増えどんな時に幸せを感じたりどんな時に怒りを感じるかというようなことについて段々と分かってきた。


そんなある日、自己分析をする機会があった。就職活動を始めるにあたってよく聞くあれだ。とは言っても私が個人的にやっているものなので本格的ではなくネットで見つけた質問事項をノートに書いていくというだけのものだ。


そこに「あなたが幸せに感じる瞬間はどんな時ですか」という質問があった。私は少し嬉しかった。なぜならこの数ヶ月間で私自身の感情について考えてきたのでやっとこうして形になるのかと思った。


まずは頭の中で私がどういう瞬間に幸せに感じるか思い返してみた。頭にはぼんやりと浮かび心でもあの時の幸せを思い出せたような気がした。


ノートに書き記す前に口頭で説明してみようと思った。いきなり書き始めるよりはある程度まとめてみたほうがいいのではというような理由であって特に深い意味はない。


なんとなくの言葉が口から出てくるのだが自分が頭に思い浮かべていた思考や心に浮かんでいた感情を表現できているとは言い難かった。だからノートに書き出すことに切り替えてみた。


そこで驚いたのだが、話すことよりも書くことの方がわたしの思考や感情について表現することは難しかった。もちろん話すことでさえも形になっているとは言い切れないのだが書くとなるともう一段難易度が上がった気がした。


ここで初めて私がここ数ヶ月でやっていた思考や感情を意識するということは無駄ではないにしろ「分かった気になっている」だけだったように感じた。



思考や感情のような目に見えない上に形がない抽象的なものは理解しているような気になることは受験勉強の時に散々思い知らされていたはずではなかったのか。


「イデア論」について分かったと思っていてもその概念に関して口頭で説明したり文字にして表そうとすると話せなくなったり書けなくなったりする。


「説明できないなら理解できたことにはならない」


受験期に学校の先生によく聞かされたセリフだったのではないか。それを久しぶりに思い出した。


思い浮かべることよりも口に出すことの方が難しく、口に出すことよりも書くことの方が難しいのなら、私自身の「思考や感情」について書くことができた時こそ理解できたと言えるのではないかというひとつの仮説を立てた。


そこからこのnoteでも度々書いている「思考や感情を言語化する」という目標ができたのだ。


とはいえ私が書き記したものが私の思考や感情を100%表しているとは全く言えない。どうしても私が考えていることや感じていることと書き記したものにはギャップがある。


例えば、私が「海に沈んでいく夕日を見て美しいと思った」と書き記したとしてもその言葉が完全に私の感情を表しているとは言えない。


明るい花を見ても深青な海を見ても私は「美しい」と思うだろう。でもその3つの異なる状況で感じた「美しい」は全て同じ感情だと言えるのか。わずかだとしても心の動きに違いはあったのではないか。そう考えるようになった。


その違いについてなんとなく感じることはできるだろう。でもなんとなくでは理解することはできない。だからその違いを書いてみようということになる。


こうして私の思考や感情とそれを書き表した文章から感じるギャップを埋めるためにさらに深く考え注意深く観察することに繋がっている。




書くという作業を通して私が自身の思考や感情についてよく知らないということを自覚し、自分自身についてもっと知りたいという好奇心をかき立てている。


それが私が書く理由。





私の書きたい文章は、どんな文章か?


ひとつめの質問の答えで書いたことではあるが、私の思考や感情を表した文章を書きたい。


思考や感情は目に見えない上に形のない抽象的なものであるので100%私の思考や感情を表した!という証明をすることはできない。


形のないものと形のあるものを比べてそれらが同じだということを証明できないと言った方が分かりやすいだろうか。


たとえそうだとしても諦めるのではなく、できる限り自分の書いた文章を読んだ時に私の思考や感情とのギャップを少なくしていきたい。


そうなるために今後も書き続けていきたいと思う。


今まで書く習慣がなかった私だったので誰かに見られている環境を作るためにnoteというプラットフォームを使用している。


だから今後も書くことは続けるとしてもそれをnoteで公表し続けるかどうかは分からない。


書く習慣ができたらスパッとnoteを辞めちゃうかもしれない。


話が逸れてしまったが、私の思考や感情を表した文章を書いていきたい。


このホームワークについて考え始めた時はこんなに長い文章になるとは思っていなかったのですが考えてみるととても楽しくてたくさん書き進めてしまいました。note内での私の自己紹介記事と言ってもいいような内容になった気がしてます。「なぜ書くのか」毎日書いていると忘れてしまいそうになる原点のような問いについて考える機会をくださった玄川さんありがとうございます。


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