見出し画像

読書妄想文 夏目漱石『こゝろ』

夏目漱石『こゝろ』との出会いは、高校の教科書だったと思う。

当時の感想としては「なんかムカつくわ。先生」だった。恋敵のKにさんざん人格否定のようなことをしておきながら、自分が被害者のようなツラをしてグチグチ悩みやがって……と。

だって、結局、この人何も他の人の気持ちを考えていないんですよ。自分が辛い辛いばかりで、奥さんへの思いだって(作中で書かれている分では)一方的なものばかり。

奥さんにつらい思いさせてんじゃないよ!男には自分の世界がある~とか浸ってんじゃないよ!

……ただ、大人になって読み返すと「先生」に同情してしまう……というか、哀れみに近い感情を抱いてしまった。

「先生」は明治の精神に殉死したとされている。この「明治の精神」が何なのかは、詳しい人達が論文やら感想にまとめているので、そちらを読むことをお勧めする!

先生の自殺は「明治の精神に殉死する」という論理によってなされた。なるほど。しかし、果たして「先生」は自殺によって「明治の精神」に殉ずることができたのだろうか。

私はそうは思わなかった。

乃木大将の殉死について考えてみてほしい。彼は妻・静子とともに自刃して亡くなったのだ。先生は妻・静を一人残して死んでいったというのに。

どちらの夫婦の形が倫理的に正しいという話ではない。「先生」は静を連れていけなかったのだ。それが愛なのかエゴなのか、分けることはできない。「先生」は心の底から理解していたのだと思う。自分と「静」が違う人間だという事を。

では「大正の精神」を持った新しい感性を持つ男として「先生」は死んだのだろうか?

それもない、と私は思う。

もしそうであれば違う人間である「静」に自分の心のうちを打ち明け、理解してもらうことを目指しただろうから。異なる人間同士の相互理解によって愛情が生まれる、というのは実に近代的だ。なので「先生」が大正の男であるなら、恋を理由に生き永らえることはできたはずなのだ。

つまり、先生は明治に殉ずることもできず、かといって大正の恋に生きる男ともなれなかった。どっちつかずの宙ぶらりんな存在になってしまった。死んでしまったからには、もう後戻りも先に進むこともできない。「静」も「私」も触れることのできない、永遠の固着状態だ。

なんという「孤独」だろうか。




この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?