見出し画像

運命か自己責任か偶然か

以前,遺伝と環境と運命論と自己責任論について記事を書いたことがあります。

才能や犯罪行為,美しさなどについて,私たちは「何が原因なのだろう」とあれこれ思いをめぐらせてしまいます。犯罪が起こると必ずと言っていいほど「遺伝なのか」「親の育て方なのか」「どう育ってきたのか」と追求が始まるものです。

しかし,いま私たちが「こう考えることが当たり前」と考えていることは,常にいつの時代でも「当たり前」ではありません。

格差という虚構

今回は,『格差という虚構』(筑摩書房)の中に出てきた一節を紹介しながら,この問題を考えてみましょう。

運命

何かの原因を「運命」だと考えるのであれば,その定めを受け入れて現実を許容することになっていきます。「この家に生まれたのだからしょうがない」という「運命」を強調する考え方です。すると,どのような結果も自己責任になることはなく,本人の責任と言うよりも「このように生まれたのだからしょうがない」と宿命に責任が向けられていきます。

①貧困・犯罪・美醜が運命の定めならば現実を受け入れるしかない。インドのカースト制度や西洋の貴族制,徳川時代の士農工商など身分社会における階層の正当化がこれに当たる。犯罪行為・無能・醜さなどの原因が当人に留まらず,親,そのまた親……と無限遡及する。自己責任に依拠せずに格差や処罰を正当化する方法だ。

『格差という虚構』(筑摩書房)

自己責任

植民地主義や人種主義を背景に,社会進化論が世の中に広まりました。「適者生存」とか「世の中は弱肉強食」という思想です。「強い者が社会の中で生き残り,社会の中で進化を遂げた人が勝ち上がるんだ」と考えることです。

よく「進化」という言葉がこの文脈で使われるのですが,はっきり言って進化という言葉の「誤用」ですよね。

とにかくこの考え方は,自己責任に結びつきます。うまく適応できなかったあなたが悪いのだ,という考え方です。為政者からすると,政治の責任を国民に押し付けてしまうことができるという,とても便利な思想でもあります。

②19世紀末から20世紀にかけて社会進化論が席巻した。適者生存というハーバート・スペンサーの言葉が象徴するように弱肉強食の論理は貧富差・犯罪傾向・美醜の原因を個人内部に求め,自己責任論によって処理する。昨今の新自由主義も同様だ。

『格差という虚構』(筑摩書房)

偶然

いいことも悪いことも「偶然」起きることだと考えるならば,責任は誰のものでもありません。不幸は自業自得ではなく,たまたま,巡り合わせが悪かったのです。誰もが外れくじを引いてしまうことがあるのです。だから,そのような不運は皆で救うのがよい,という考え方につながっていきます。

③誰にも偶然起きうる不幸なら当人にも親にも責任はない。裕福な人,美しく能力に恵まれた人も危うく劣等な形質を授かる可能性があった。この世界観が拡がる社会においては不幸が自業自得だと考えられない。くじ引きの悲惨な結果を蒙った人びとを救済する措置が講じられるだろう。身体障害者の多くは自らのせいで傷害を背負うのではない。「お前の障害は自己責任だ」とは言わない。能力も同じだ。遺伝・環境・偶然という外因が育むのだから。

『格差という虚構』(筑摩書房)

どこに重きを置くか

おおよそ私たちはどこかに軸足を置きながら,物事を考えていきます。時と場合によってこれらの考え方は揺れ動きますし,この問題はこっちであの問題はこっちといったように一人の中に共存することもあります。

しかし,少なくとも自分がいま立っている場所については自覚しておきたいものです。そして,あえて違う立場から眺めることができるようにしておきたいとも感じます。

ここから先は

0字
【最初の月は無料です】心理学を中心とする有料noteを全て読むことができます。過去の有料記事も順次読めるようにしていく予定です。

日々是好日・心理学ノート

¥450 / 月 初月無料

【最初の月は無料です】毎日更新予定の有料記事を全て読むことができます。このマガジン購入者を対象に順次,過去の有料記事を読むことができるよう…

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?