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競技者時代の話をしようか。(中学〜高校編)

長い春休みが終わり、
ルワンダではいよいよ明日から学校が始まる。

この休み期間、
自分と向き合う時間がたくさんあった。

現在、私は協力隊としてルワンダの生徒を対象に陸上競技の指導をしている。
私はなぜ陸上競技をはじめ、どのように取り組んできたのか、そして、陸上競技を通じて何を学んできたのか。

振り返りたくなった。

というわけで、今回は競技者時代(中学生〜大学生)の話を
中学〜高校編と、高校〜大学編に分けてしようと思う。


きっかけは友だちの誘い

3歳から器械体操に打ち込んでいた。

細い台の上でバク転をしたり、いくつもの技を組み合わせて、時には離れ技をして。

ビビりな私にとって、器械体操は恐怖の連続だった。

バク転だって、周りが1週間〜1ヶ月でできるようになるところ、私はできるようになるまで3ヶ月かかった。


さらに、人より身体が硬かったので、練習後に居残りを命じられ、跳び箱の1段目に片足を乗っけて、前後開脚していた。

何よりも情けなかったのは、同じ学年の子たちが選手コースという上のコースに進む中、自分は最後の最後まで育成コース止まりだったこと。

試合のたびに応援に駆けつけてくれる家族にも申し訳なかった。。。

言葉の暴力を浴びて、完全に自信を失っていたけど、なんとなく辞めなかった。

3歳から中学2年生までの約11年間、毎週3回の練習を続けた。

自分に才能はない。年下の選手がどんどん上達する中、私はなかなか上達しなかった。

今思えば、夢中で取り組めておらず、上達するための努力をしていなかった。
それに尽きる。

体操を辞めてしまえば、自分には何もなくなる。

自分=スポーツ。

そんなふうに思っていた。

転機が訪れたのは、中学2年生の冬。

同じクラスだった友だちに「一緒にリレー走ろうよ!」と誘われたことだった。

そして、11年間続けた器械体操を辞める決断をした。

自分の中では大きな決断だった。

冬の練習は、廊下での鬼ごっことリレー。

シーズンインしてからは、なんとなく走り幅跳びに挑戦した。
そして、リレーで全道(北海道)大会出場を目指して、練習に励んだ。

今まで怒られてばかり、何をするにもうまくいかないという状況から一転、
顧問の先生はいるものの、ほぼ生徒たちだけで行う練習は、最高に楽しかった。

陸上競技の本を買ってもらい、自分なりに勉強したりもした。

中学3年生では、目標としていた全道大会の出場権を獲得した。

地元ではなく、地方への遠征できることがとても嬉しかったし、楽しかった。
入賞はできなかったものの、仲間と取り組むことの楽しさを知り、陸上競技の魅力に取り憑かれていた。

私は中高一貫校に通っていた。
高校の陸上競技部は、北海道の強豪校のひとつだった。

迷うことなく入部を決めた私は、中学3年生の冬から鬼のようなトレーニングに取り組むことになるのだった。

劣等感

強豪校ということもあり、地方からスポーツ推薦の選手がたくさん入部する。

彼らは中学校から全国大会に出場していたり、北海道でもトップを争う選手たちだった。

彼らはもちろん、私と同じように、入部前から高校の練習に参加した。

中学校の楽しい練習から一転、毎日筋肉痛に襲われる日々となった。

スポーツ推薦の選手組は軽々と練習をこなし、高校生に負けないガッツで取り組んでいるように見えた。

ある日の練習時、先生にこんなことを言われた。

「リレーの補欠で、インターハイにいければいいね。」

悔しかった。
最初から負けるのを決められているようで、可能性を認められていない気がしてとても悔しかった。

話が少し逸れるが、当時の私は、学校の先生からは問題児認定されていた。

勉強もできず、自分のアイデンティティであった体操を辞めてからも、
目立ちたい、私は他の子とは違うんだ!という思いがとても大きかった。

合唱コンクールの練習はふざけまくり、授業には真面目に取り組まず、遊んでばかりだった。

大した実力も努力もしていない、劣等感を感じながら、それでもがむしゃらに練習に取り組んだ。

頑張れたのは同じく、冬から練習に取り組んだ中学バスケ部出身で同じく内進の子、
そして、部活動は違えど、一緒にやんちゃをしていた子のおかげだった。

こんなにきつい練習を3年間続けられるのだろうかという思いと
先生やスポーツ推薦の選手たちに負けてたまるかという思い
自分が選んだ道を信じてみたいという思い。

いろいろな思いを抱えながら、迎えた4月。

中学生気分が抜けないまま、私は高校生になった。

努力と結果で見返す

高校生の夢の舞台は、インターハイ。

全国大会だ。

全国の舞台に進むためには、地区大会、都道府県大会で勝ち上がる必要があった。

各種目、学校から出場できるのは3名まで。

私は中学から取り組んできた走り幅跳びで出場したいと思っていた。

しかし、既に自分よりもレベルの高い先輩、そして同期がいたため、出場枠がなかった。

そして、顧問の先生の判断で、私の種目は100mハードルと七種競技になった。

ハードルは中学3年時に少しだけ取り組んだ経験があったが、ほぼ初心者。

そもそも、やりたい種目とは違う種目だった。

悔しい。それでも、自分のやりたい種目(走り幅跳び)で出場できる実力がないことはわかっていた。

いつも思い返していたのは、冬の練習時に言われた
「リレーの補欠で、インターハイにいければいいね。」という言葉。

与えられた種目で、先生とスポーツ推薦組を見返してやろう。

その気持ち一心で、練習に取り組んだ。
YouTubeでトップ選手の動きを分析したり、練習方法を学んだ。

徐々に練習の中で、先輩や同期に追いつけている実感が湧いていた。

その結果、地区予選では100mハードルと七種競技でも全道大会の出場権を獲得した。
さらに、4×100mリレーのメンバーに選ばれ、1年時から表彰台に登るという経験を味わうことができた。

そして、インターハイの切符がかかった全道大会。

私は5位でゴールし、100mハードルでインターハイの出場権を獲得した。
そして、4×100mリレーでもインターハイの出場が決まった。
七種競技は、途中棄権をして、4×400mリレーに出場し、全国の切符を掴むことができた。

ゴールして、自分の順位がわかった瞬間、涙が溢れた。
これまでの努力が少し報われた気がして、本当に、本当に嬉しかった。

「リレーの補欠で、インターハイにいければいいね。」

彼らを見返すんだ。
そんな気持ち一心で取り組んできた。
その時の私のモットーは雑草魂だった。

どんなに根っこを折られそうになっても、必ず立ち上がって上を目指す。
そんな気持ちで取り組んでいた。

そして、むかえた初めての全国大会。

結果は100mハードルでもリレーでも予選落ち。

何もかも初めて、気持ちがどこかふわついていた私は、試合モードではあるものの、この舞台に立てたことに満足していた。


- はじめてのインターハイは大分 -

先輩が全国の舞台で活躍する姿を見て、出場ではなく、この舞台で実力を発揮したいと思った。

インターハイを終えてから、秋の地区大会、全道大会でも入賞することは当たり前になった。

この頃から、私は入賞ではなく、優勝を目指すというマインドで練習に取り組むようになった。

そして、来年のインターハイの4×100mリレーで全国入賞することを目標に掲げ、オフシーズンの練習に取り組んだ。

陸上競技へ取り組むスタンスが大きく変わった。

「見返したい」ではなく「一緒にリレーを走る先輩2人と全国の表彰台に登りたい」に。

どんなにしんどい練習でも絶対に手を抜かないと決めた。
すべては、先輩二人、そして、自分が憧れていたスポーツ推薦の同期と共に、全国の表彰台にのぼるため。

もう一つの大きな変化は、勉学面でも成績が上がったことだ。

陸上競技部の先輩や同期は、みな成績優秀だった。

インターハイで2位入賞を果たし、のちに東京オリンピックにも出場した先輩は競技面だけでなく、勉学面も素晴らしかった。

勉強はお世辞でもできるほうではなかった。

ただ大会や合宿で学校を休むときは、事前に課題を先生に提出したり、勉強ができないなりに自分で考えて、できることを探して取り組んだ。

はじめの学期で3.2くらいだった私の評定平均は4.1まで上がった。

高校1年時に私が学んだこと。
それは「応援される人」になるためには、競技面だけでなく、あらゆる面で努力を怠らず取り組むことが大切だということ。
そして、目標を達成することの楽しさを学んだ。


全国の舞台

高校2年時の私の目標は、4×100mリレーでインターハイに出場し、全国入賞することだった。

私以外のメンバー3名は、100mで1位から3位を独占することもあり、唯一ハードルに取り組んでいる自分が足を引っ張っている実感があった。


 - 憧れの3人だった -

休日も競技場に行き、リレーメンバーの先輩2人、同期1人、そして先生と共に+アルファの練習に取り組んだ。

バトンパスは、アンダーハンドパスとオーバーハンドパスを適性や走力に応じて使い分けた。

「パチン!」と手から手へとつながるバトンの音が今でもとても懐かしい。

迎えた地区大会、全道大会では長年勝つことができなかった高校に勝利した。
そして、迎えたインターハイ。

予選の組には、強豪校が集っていた。
しかし、チームベストでその組の1位でゴールすることができた。

全国の決勝がかかった準決勝。
2位でゴールし、決勝への切符を掴んだ。

この日のため、46秒のために取り組んできた日々は、無駄ではなかった。
心からそう思えた。

決勝の舞台では、8位と最下位でのゴールだった。
しかし、全員で掴んだ全国入賞という結果。

はじめて、全国の表彰台にのぼることができた。
この時の感動は忘れられない・・・。


- はじめての全国入賞 8位!-

個人種目の100mハードルでは、
春季大会から高体連の地区大会、全道大会など
すべての大会、すべての種目で優勝した。

しかし、インターハイでは予選落ち。
レベルをもう一段階上げる必要があった。

来年のインターハイでは、個人種目の100mハードルに集中し、全国入賞をする!
その目標を胸に、オフシーズンは、誰にも負けないと思えるくらい練習に取り組んだ。

朝練習では、YouTubeなどで学んだハードルのドリルを繰り返した。
家から学校までは毎日、父が送ってくれた。
雨の日も冬の日も、欠かさずに朝練習に取り組めたのは、家族のサポートのおかげだった。

帰宅後は、練習の動画を見て、改善点を探す。
そして、YouTubeでトップ選手の走りを研究した。

ある日、顧問の先生が、他校の女性の先生を紹介してくれた。

そしてその女性の先生の指導を受ける機会をいただいた。

鬼のような厳しさだった。

足とお尻がもげるのではないかと思うほどのトレーニング。
乗り越えられたのは、同じハードル種目に取り組む同期や後輩のおかげだった。

徹底的に自分の動きを見直され、それでも、なかなか理想には辿りつかず・・・。

なかなか褒めてもらえず、認めてもらえなかった。
それでも、腐らず、彼女からいただいたアドバイスを練習の中に取り入れた。

冬場は、雪が積もるためグラウンドでの練習は行えない。
そこで、廊下にハードルを並べて、朝練習に取り組んだ。

野菜嫌いだったが、栄養面にも気を遣って生活しようと思い、
父母に頼み、野菜を摂取できて栄養のある食事に変えてもらった。

大好きなマクドナルドや炭酸、ポテチは封印した。

練習量では誰にも負けない。
それが、自分の自信になっていった。

日本一が夢ではなくなった。

高校3年生、ラストイヤー。

春季大会では、出場した全種目で大会記録を更新し、優勝した。

大会後、今でも鮮明に覚えている出来事があった。

他校にも関わらず指導してくださった鬼の女性の先生と話すことができた。

そこに別の先生もきた。

話題は、中学校の全国大会で優勝した経歴を持つ1年生と私の話。

そして、女性の先生がこんなことを言ってくれた。

「この子が勝つよ。13秒で走るから見てな。」

嬉しかった。
この言葉は一生忘れない。

はじめて、彼女に認めてもらえた気がした。

これが自信になり、全道大会では14秒の壁を乗り越えて、自己ベストで13秒台優勝した。

そのタイムは、前の年のインターハイの3位入賞に匹敵するタイムだった。

私の目標は、全国優勝に変わった。

全道大会の翌日には朝練習を再開した。

メンタルが弱い私は、メンタルの強化として、
イメージトレーニングに取り組んだ。

レース前のウォーミングアップからレーススタート前、レース中、そして、一位でゴールし、インタビューを受ける姿まで。
全てをイメージしてから毎日寝ていた。

インターハイ前に公開された事前のランキングにおいて、私は3位だった。

優勝は夢ではない、そう思った。

今だから話せる、当時の本音。

そして、迎えたインターハイ。

開催されたのは和歌山県だった。

1日目に行われた400mハードルではあっけなく予選落ち。
インターハイ最終日に行われる100mハードルが私の本番だと思っていた。

本命の100mハードルが行われる前日、4×400mリレーの予選に私は出場した。

そして、その予選で予想外の出来事が起こった。

長らく更新されていなかった北海道高校記録を更新し、翌日に行われる準決勝へと進むことができたのだ。

チームは喜びのムードで溢れる中、私は心の底から喜べていなかった。

私の想定では、4×400mリレーには出場せず、100mハードルに集中できると思っていた。

4日目の私のスケジュールは下記の通りだった。

10:00 100mハードル予選
12:30 4×400mリレー準決勝
13:00 100mハードル準決勝
15:00 100mハードル決勝
16:30 4×400mリレー決勝

前日の夜、ミーティングが行われた。
そこで、顧問の先生と4×400mリレーの準決勝に出場するか、100mハードルに専念するか話し合いをした。

昨年は、個人種目を犠牲にして、4×100mリレーでの結果を求めて取り組んできた。

ラストイヤーは個人種目で活躍したい。
その気持ちで、今まで取り組んできた。

再びチームでの勝利を掴める可能性が浮上した4×400mリレー。

私は個人種目を優先したいと思っていた。
そのためにこの1年間取り組んできたのだから。

「大丈夫だ」
先生に説得され、結果、私は4×400mリレーに出場することが決まった。

そして、迎えた試合当日。

私は、朝からもうやけくそだった。
今まで自分が誰にも負けないほどに練習してきた日々はなんだったのか。

個人種目の100mハードルで優勝できる可能性があるのに、
私はなぜ4×400mリレーの準決勝に出場することになったのか。

試合前のウォーミングアップでは、前日の疲れもあり、全く本調子ではない。
加えて、気持ちを立て直すことができないでいた。

そして挑んだ100mハードル予選。
なんとか2位でゴールし、準決勝に進むことができた。

試練はここからだった。

4×400mリレー準決勝の30分後に100mハードル準決勝が行われるスケジュールだった。

400mを走った30分後に、100mハードルで100%の実力を発揮しなくてはならない。
当時の私は、そんなの不可能だと、初めから思っていた。
だからこそ、去年から個人種目で優勝可能性のあるハードルに注力すると決めていた。

それでも、なんとか気持ちを整えて、4×400mリレー準決勝に挑んだ。
結果は5位、準決勝落ちだ。

走り終えてから、100mハードル準決勝の招集場所までの道のり、涙が止まらなかった。
走る前から私は泣いていた。

チームメンバーや先生が招集場所まで見送りに来てくれた。
今だから言えるが、正直ひとりになりたかった。

心も体も疲れ果てている今、
たたでさえメンタルの弱い自分が、決勝へ進む姿が全くイメージできなくなっていた。

そして、気持ちも体もボロボロなままで迎えた100mハードルの準決勝。

5位でゴール。

決勝までの道は、あと0.05秒だった。


この舞台のために、誰にも負けないくらいの練習をしてきた。
遊ぶ時間、全てを犠牲にして、陸上競技に取り組んできた今までが無駄になった気がした。

ゴールした瞬間、涙が止まらなかった。

スパイクを脱ぎ、チームのメンバーが待つテントまで戻らないといけない。

1人になりたい。
誰にも構われたくないと思った。

フラフラと歩いていたら、先生に見つけられて、一緒にテントに戻った。

大会の反省として、出場したメンバー一人ひとりが全員の前で話す。
前にたった瞬間、涙で言葉にならなかった。

「自分の努力不足です。周りは速くて強かったです。」

私はアスリート、応援される存在であり続けないといけない。
本音でなんか話せるわけがない。

0.05秒。

今まで様々なものを犠牲にして取り組んできた日々はなんだったのか。
実力があったとしても、結局は気持ちなのだ。

速いだけでなく、強い選手が、この舞台で輝くことができる。

私は速くはなったが、弱いままだった。

リレーを走っていなかったら、決勝に進めていたかもしれない。

入賞可能性のある種目を犠牲にしてまで、チームで勝利を掴むことの重要性を訴える先生が理解できなかった。

私が昨年度、個人種目を犠牲にしていることを知っている先生が、なぜ私に走らせることにこだわったのか。

そんなこと考えてはいけない気がして、そっと心の奥底にその気持ちを閉まった。
そして、その日、一生、リレーは走らないと心に決めた。

再び和歌山の舞台で

インターハイを終え、北海道に戻った。
しばらくのオフ期間、陸上競技は高校で辞めよう。
そう思った。

しばらく誰とも話したくなかった。
元気になんてなれなかった。
父母にも相当、この時の私を気遣ってくれていただろう。

今でも覚えているのは、そんなオフ期間に
母が「パンケーキ食べに行こう」と誘ってくれたことだ。

試合のことに触れず、元気付けようとしてくれたことを思い出すと
このnoteを書いている今も、涙が止まらない。

しばらく経ったある日、国体予選に出場して、国体出場を目指さないか?という連絡が先生から来た。

しかし、種目は100mハードルではなく、400mハードル。

以前から適性があると言われていたものの、好きではなかった400mハードル。

400mハードルを想像してみてほしい。

400m走るだけでさえ辛いのに、そこに10台のハードルが並べられているなんて。。。

インターハイを終え、約1週間後には、400mハードルの練習を始めた。
それまで、本格的に練習をしたことのなかった400mハードル。

旭川で開催された国体予選で、自己ベスト、大会記録で優勝することができた。

もともと他の選手と比較すると、ストライドが大きく、
これが自分の武器でもあった。

このストライドと100mハードルで培ってきたハードルテクニックがあり、
想像以上に、すぐに結果にあらわれた。

そして、北海道代表として選出していただき、国体への出場が決まった。

大会までは約2ヶ月弱あった。

他校の先生であり、国体ハードルチームのコーチがこの2ヶ月弱の練習を考えてくれた。
また、休日返上で、競技場で特別に練習を見ていただいたりもした。
今この年になって思うけど、本当にありがたいことだった・・・

課題は、逆足のハードリング技術だった。

同じ足で10台飛び越える100mハードルと異なり、400mハードルでは時に逆足を活用する必要がある。

朝練習では逆足のハードリング技術が向上するように、とにかく台数を飛び、感覚を掴むことに尽くした。

加えて、400mを走りきるための筋持久力を高めるべく、走り込みの練習にも取り組んだ。

逆足でもスピードを維持したままハードリングができるようになってきたある日、顔面から転んで、大怪我をした。

ストライドという武器を最大限活用するために、努力は怠らない。

妥協せず、100%の努力でやり切ろうと思った。

そして、迎えた国体。
舞台は、インターハイと同じ和歌山県だった。

ギリギリ予選を通過し、
準決勝もギリギリ、最下位のタイムで決勝に残ることができた。

はじめて掴んだ個人種目での決勝の舞台。

決勝進出が決まった瞬間、また涙が出た。

今思うけど、私泣いてばかり(笑)

スパイクを脱ぎ、選手退場口から出ると、いつも北海道でインタビューをしてくれていた報知スポーツのおじさんがいた。
そして、その奥には、リレーで全国入賞し、国体に出場し、常に一緒に頑張ってきた同期の姿が見えた。

努力で掴んだ決勝の舞台。
自分の全てを出し切る。
こわいものなんてなんもない。
私は挑戦者、雑草魂で走るんだ。

結果は、3位。
25年間更新されていなかった北海道高校記録を更新した。

多くのコーチや先生、友人、両親が喜んでくれた。

そして、大学でも陸上を続けよう。
全日本インカレで日本一になろう。

その目標を胸に、私は大学に進学した。

高校時代の私が陸上を通じて学んだこと

最後に、私が高校時代の陸上競技生活を通じて学んだことを共有しようと思う。

目標設定の重要性

器械体操に取り組んでいる際は、目標などなく、やみくもにたた練習に取り組んでいた。
陸上競技に出会い、目標を設定し、その目標に向けて逆算して、今すべきことを考えること、
今あるべきレベルに自分を高めることの大切さを学んだ。

練習は、ただ取り組めばいいものなのではなく、目的があるからこそ価値あるものになる。

目標を達成する経験を積み重ねることで、自分の自信につながる。
その自信は陸上競技に限らず、勉強やあらゆる面で生かされる。


雑草魂


何かを極める時に、誰かに期待されなくとも、どんなにうまくいかなくとも、めげずに腐らずに、何度も何度も立ち上がることが大切。
カッコ悪くても良い。自分が納得する分だけ努力し、立ち上がる、この不屈の精神こそが大事だ。


応援される人


競技力が高いだけでは応援される選手とは言えない。
競技に限らず、勉強も含め、どんなことに対しても誠実に、そして、全力で取り組んでいる人にこそ、人は集まる。人への感謝を忘れずに、常に謙虚で、他者を必要以上に批判せず、自分のやるべきことに集中する。

これが速い選手ではなく、強い選手が勝つということにも通ずる部分があるが、
行動や考え方の全てが結果につながる。

何かを成し遂げようと思う気持ちと同じくらい、まずは、人として応援され
る人になることがとても大切だ。

おわり

中学〜高校編はここでおしまい。
振り返ってみても、涙が出てくるくらい貴重な経験をしてきた。

ここには書ききれない思い出もたくさんある。

中学生の自分に感謝を伝えたい。

長年続けてきた器械体操を辞める決断をして、陸上競技を始めたこと。

今、あなたは開発途上国とよばれるアフリカのルワンダで、陸上競技の指導者として活動している。

信じられないと思うけど、あなたの決断が、私の今に繋がっている。

心からありがとう。


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