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町田・相模原史跡散策(2) | 境川ゆっくりロード周辺 |

前回の記事

[前回]
境川ゆっくりロードを中心に、周辺に点在する時代も由来もバラバラな史跡に足を向けて見ることしたのだが、この周辺の史跡は「横山党」という平安・鎌倉期の武士団との関係が深いことが分かってきた。

[今回]
更に立ち寄った残り二箇所の記録を掲載する。
今回は更に古い伝承の地を発見することとなる。


今回の撮影機材

DJI Pocket 2

今回は、取材後にそのままコンサートホールへ行くことになっていたので、一眼レフを持っていくのは控えた。
小さくて機動力のあるDJI Pocketは文字通りポケットに入れて持ち歩ける上、記録写真としては充分な画質で撮影できるため重宝している。
ただ、やはり一眼レフカメラに比べると「いい写真」とはなりにくいので、そこは予めご承知おきいただきたい。


境川ゆっくりロードとは

この記事から見た方で、境川ゆっくりロードについて知りたい方は、以下の記事参照。


名称詳細不明の慰霊碑

境川沿いの住宅街にあり
数も多いのでかなり目を引く存在だ

概要

所在地:東京都町田市根岸町
※Google Mapsによれば、町田市根岸町は「丁目」の設定のない単独町名とのこと。

他に情報は見当たらず。今後も調査を続け、分かり次第記事にすることとする。

様子


縁切り榎とわかれ橋

縁切り榎とわかれ橋概要

所在地:〒252-0203 神奈川県相模原市中央区東淵野辺2丁目30

案内板

南北朝時代の伝説の地。淵辺義博は後醍醐天皇の皇子護良親王の殺害を主人から命じられましたが、代わりの首で主人をごまかし、親王を淵野辺の地(龍象寺裏山)にしばらくかくまっていました。
やがて、親王を奥州石巻(宮城県)に落ちのびさせるため、淵辺義博は境川沿いの榎の下で妻子と縁を切り、境川の橋の上で別れを告げて旅立ったといいます。
後年、この榎を「縁切り榎」
橋を「わかれ橋(中里橋)」
と呼ぶようになりました。

大野北公民館

縁切り榎とわかれ橋の様子

今回の旅では一番古いと思われる南北朝時代の伝説の地。
私の想像以上に古い時代からこの地に人がいたということか。
ますます胸が高鳴るのを感じた。


まとめ

今回はここまで。
本当はあと2箇所取材したい古墳があったのだが、時間が足りず残念だった。
とはいえ、収穫や課題は山ほどあったので、今後資料や情報を探して考察の時間に充てるとする。


[参考文献]
ウィキペディア「
根岸町
「根岸村」 『
新編武蔵風土記稿』 巻ノ90多磨郡ノ2、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763988/51



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