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ロニ・ホーン『水の中にあなたを見るとき、私はあなたの中に水を感じる?』

少し前に箱根のポーラ美術館で行われているロニ・ホーン展へ行ってきました。

ちなみに箱根はさらに少し前にも訪れていたのですが、その時は沼津で海鮮丼を食べて、その後箱根の湿性花園で『食虫植物展』を観てロマンスカーでのんびり帰って来ました。

え?なにその美術と無関係なクソツアー?てかロニ・ホーンどこいった?って感じですが、個人的には非常にこのツアーは楽しかったです。

お刺身が好きなのでメインは沼津でお寿司を食べることで、帰りに近かったので箱根の湿性花園によってそこでも沼津港で買ったお寿司を食べました。言わずもがなめちゃくちゃ私は浮いてました。まじ美術要素ゼロでした。

で、今回も唐突に朝思い立って箱根に行ってきました。さすがに『そうだ、京都行こう』みたいに当日朝いきなり京都に行くことはあまりないのですが、箱根くらいなら夕方に仕事があっても全然行けてしまいます。

毎回行って思うのは箱根はとにかく『金ない奴は帰れ』的な雰囲気がいたるところに漂っているなということです。

よく言えば洗練されているし、悪く言えば貧乏人を排除するようなアパルトヘイト的な雰囲気を感じます。食虫植物園の帰りに宿に泊まろうとしたら全くもって近くの旅館が高くてビビりました。

いつか箱根の高級旅館に泊まれない貧乏人(私含む)が箱根に対して暴動とか起こさないか、箱根に行くたびに勝手に不安になります。

対して熱海などはとにかく会社の社員旅行で宴会しながらカラオケやって大広間で騒ぐ的な、昭和の名残が色濃く残っていて洗練されすぎない団塊世代根性丸出し(だから熱い海なのか?)な感じが好きです。

最近はどこも都心の駅が再開発されて風貌がどんどん似てきている印象があるのですが、そういう流れに便乗しない感じがやっぱり熱海は変わらないなって感じで、行くたびに安心感を再確認させられます。

あと今回の箱根のポーラ美術館とその一帯を訪れて思ったことはとにかく若い人が多いなということでした。春休みなどでなおさらなのだと思いますが、東京の国立経営の博物館・美術館に来る人とは平均年齢が大きく異なりました。

前置きが長くなりましたが、ここからが本題のロニ・ホーンです。

ロニ・ホーンはアメリカの女流作家で1955年生まれです。ニューヨークで作品を作っているのですがミケル・バルセロ同様日本ではそこまで認知はされていませんが世界的な作家です。

ポーラ美術館はポーラ化粧品のポーラが運営していますがとにかく内観、外観、お手洗い、すべてが超きれいです。さすが美の殿堂ポーラって感じで箱根に建設を許可されるだけあります。下の2番目の写真に写っている銀のシャフトなんかも作品ではなくてソーシャルディスタンスを確保するための間仕切りらしいです。間仕切りおしゃれすぎるでしょ。

ロニ・ホーンは1975年からアイスランドに定期的に何度も滞在し、そこで孤独を感じながら作品を作ったりしています。アイルランドの灯台に6週間篭って水彩画描いたり、村の人と一緒に生活しながら作品を作ったりもします。展覧会の本人が出ている映像でも何度も『孤独を感じなさい』みたいなことを言っていました。

ロニ・ホーンはいわゆる現代美術系の作家で、現代美術はなんかよくわからないものも多いのですが(例、異次元ワールド五美術大学展)

いいものには必ず鑑賞していると『ハッとする瞬間』があって、それは私たちが日常的に見ているけれど日常の中で当たり前に感じているものに新たな見方を与える、あるいは発見させる(気づきを与える)感じが作品にあります。
例えば千利休が朝鮮茶碗や魚籠に花を活けたのは、本来普通の食卓でご飯をよそうお椀や釣った魚を活ける籠という用途のものに新たな用途(お茶を飲む、花を活ける)を付与したということです。

本来『これはこう』という既成概念を覆す、それは例えばロニ・ホーンが『水』という概念に対して一般的に私たちが抱くイメージに新たな見方を提示してさらに美的感覚を加えたものが今回作品として私たちの眼の前に現れています。

突き詰めればこれらはプラトン哲学のイデア論や本質概念『ものがあるとどういうことか?』ということとも繋がっています。机は元々木からできているが、木とは元々『机』という本質をはらんだ物体なのか?それとも木は単に木であって『机』という形は人が見出して初めて机になるのか?など。

ロニ・ホーンは水や自然というものに対しての思い入れが非常に強いのですが、私たちの周りには水道の水、川の水、水溜りの水、お風呂の水など様々な場所で水を目にする機会があります。ではその水について普段どの程度考えたことがあるでしょうか?

よく鉛筆デッサンを行うとこんなに長時間人生で鉛筆を握ったのは初めてだと言われるのですが、絵を描くということや対象を観察するということは普段そこまで意識せずに接していたものにものすごく時間も意識も傾けるということです。それはロニ・ホーンが水のあり方へ向けた意識の向け方と同じことだと思います。

こちらの作品は数百キロにも及ぶ溶かしたガラスに顔料を混ぜて鋳型に詰めたものを固めたものだそうです。窓からの自然光が透過して非常に綺麗な作品でした。

こちらの部屋でも金箔が貼られたシートが自然光に揺られ詩的な空間を形成していました。

エミリー・ディケンズの詩がそれぞれの棒に書かれています。横から見ると文字は白く流れ出ていて、そういった妙がなんとも言えない感情を湧き起こさせます。

この金箔を貼ったシートや文字が流れた棒などは本当に見ているとハッとさせられました。単にディケンズの詩を本の上で読むのとは異なる感情が沸き上がります。言葉の効果を芸術作品としての視覚的効果と組み合わせることによって、より生々しく(そのように加工していることにより)伝わってきました。

平たく言えば現代美術とはこう言った手法をいかに駆使して(自分なりに解釈したことを視認できる形に変換して)鑑賞者に訴えかけるかにかかっているのだと思います。だから現代美術はいわゆる技術勝負(一目でうまい!と分からせて勝負する)という作品が少ない=わかりにくい、と思われるものが多いのだと思います。

こちらもやっていることはカットした文字を綺麗な色の配列で散らしているくらいの感じですが、それをゼロから思いついて見る人に強く訴えかけるという形にまで昇華できる、その掘り下げ方がすごいところです。

最初はなにこの連続したおばはん?みたいな感じでしたが、なるほどって感じです。
感覚としては以前東京都現代美術館で行われいたオラファー・エリアソン展に近いものがありました。

とにかく現代美術の作品は大きいものと重いものが多いです。今回の展覧会で溶かした色ガラスをいくつも並べた展示室はこの作品のために床を特別に補強したとのことでした。

ポーラ美術館は周りの景観を活かして屋外庭園作品展示なども行っています。15分くらいかけてぐるっと一周できるくらいの広さなのですが、天気がいいと本当に気持ちが良く箱根という景観を最大限に活かしています。そして今展覧会に合わせてロニ・ホーンの作品が屋外にも展示されていました。

『鳥葬』というタイトルでしたが一通り館内の作品を見て森の中で最後の作品を見て森を抜ける時にふっと空を見ると、普段空を見るときとは違った見え方で空を見られたりします。そういうところがこのような場所で美術作品を鑑賞する良さだと思います。

最後に展覧会を見終わって周りを見渡してみると、終始そこにいるのは家族連れか10代、20代のカップルばかりでした。ホーンさんは『孤独』を感じろと言っていたのですが、なんか一番多いのは二十代くらいのカップルとかで、正直会場に孤独な人は殆どいませんでした。

むしろそんな中30代後半の男が平日朝からこんなとこにいて『ちょっと、やだ、あの人なんで平日の朝から一人で箱根にいるのかしら?きっと子供部屋おじさんなのよ。やぁねぇ、あいつ、私たちの税金で最後まで生きていく気よ‥』みたいな視線を受け、おそらくロニ・ホーンさんが言っていた『孤独』とは全く違う形の孤独を私は一人感じていた気がします(笑)

そしてロニ・ホーンさんも今回の展覧会に合わせて来日していたらしいのですが、実はロニさんも家族とかお孫さんとかつれて来日して、なんなら温泉入って高級旅館に泊まっておいしいご飯食をべていい気分で日本を満喫して帰って行ったんじゃないか?!みたいなくらい展覧会はピースフルな空間でした。

お土産屋とかカフェはめっちゃ繁盛してたし図録はすでに完売だったし、最近はどこの美術館もメインである美術館の作品鑑賞よりも併設されたカフェとかレストランの方が皆さん滞在時間が圧倒的に長くないですか?みたいなことがよく起きています。

でも今は世情的にも大変な時代なので、そういう明るい話題はいいことだと思います。

本来美術館とは玄人ばかりの閉ざされた空間で内輪だけでよくわからない小難しい話で盛り上がっていくようなものではなくて、多くの人にリーチできて鑑賞されるべき場だと思います。そこには子供や家族連れやカップルや私みたいな働いてんだか働いてないんだかよくわからない人がいてもいいと思います。(一応みなさんがお休みの時に働いています)

最近はどこの美術館も非常に綺麗で洗練されていて、昔のパーキングエリアやスキー場のお昼処で出していたようなカレーなんか出していたら『おしゃれヤング』や『セレブマダム』にはダメなんだとようやく気づいた感じがあります。むしろメインが美術館なのかレストランなのかよくわからい場所さえ結構目にします。

でもこれって好きな女の子がいて、その子のことを別の女の子に相談していたらその相談相手の女の子を好きになっちゃったみたいな感じで、それはそれで結果オーライで良いのではないかと思います。

現代美術作家は色々と難しい理屈をこね回して作品を作ったりする人が多いのですが、一目見ていいものはいいというのが個人的には一番だと思います。それはいわゆるダヴィンチみたいな技術勝負のすごい作品ではなくても作品の良さやすごさを感じさせることは十分に可能なんだと今回の展覧会を見て改めて思いました。

確かに囲碁や将棋のようにルールがわからなければ理解できないような作品が世の中にあることは否定しません。しかし例えば富士山を見ていちいち横で『空と山のコントラストがどうだ』とか『峰が重なり合ってどうだ』とかフランス料理なら『ソースが何と何を混ぜ合わせてああだ、熟成期間と焼き加減がこうで…』なんてごちゃごちゃ長く言ってると、

『うるせーよ!!!おまえの長くてつまらない話聞いてたら料理が冷めちゃうよ!!!

みたいなところがあるので、パッと見ていい悪いの琴線にひっかかるかどうかで最初は判断していいと思います。

私もなるべく『美術美術』した感じに偏らない形で(あと作家をディスりすぎない形で)これからも色々な展覧会を紹介していきたいと思います。
(いわずもがな紹介する作家は全員好きな人たちです)

なおポーラ美術館では現在新収蔵作品展が行われています。現代美術の大巨匠ゲルハルト・リヒターの作品などもあり非常に見応えがあります。是非この機会に訪れてみてくださいませ!


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