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部下と上司とエトセトラ⑨

ほんの些細なこと

 きっと違う状況であったなら、些細なことで済んだかもしれない。ただ些細の種類は人によって違うのだし、男女でも違う。今までだって最上に腹が立ったことは幾度となくあって、それでも半日過ぎれば自然と納得できていた。
 これほど許せなかったのは初めてだった。

「――マジか」

 遅番出勤の日。午前十時に起床し、浴室の鏡に向き合った芳香は困惑した。
 額の右側あたりに円形の赤い湿疹が広がっていたのだ。よく見れば、虻に刺されたように腫れていて、表面はかぶれのようにざらついている。
 すぐに前髪で隠そうとなんとか試みるものの、普段オールバックぎみに髪を上げ、なおかつ分け目が真ん中なのが災いして、どうしたって隠れそうにない。

「出勤前に病院行ってこよう」

 冴えてきた頭をフル回転させて、かかりつけの皮膚科に予約する。午前の診療にはギリギリ間に合いそうだった。
 一つ問題があるとすれば、仕事があるというのに化粧ができないことだ。ファンデーションやコンシーラーで誤魔化せるかもしれないが、これだけ大きい湿疹が果たして隠せるのか否か。そもそも今から病院へ行くというのに、患部を隠すわけにもいかず、化粧品を付けて悪化するのも嫌だった。
 ホール業務が大半なだけに、だいぶ見映えは良くない。
 待合室で待っている間、最上に報告を兼ねて患部の様子を撮影した写真を送る。するとものの数分で既読がつき、返信がきた。

 >日の丸じゃん

 その瞬間、苛立ちが込み上げてきた。怒りのスタンプを返すと、彼が度々送ってくる煽り系のスタンプが返ってきた。途端に芳香の中で色々なものが冷めていく。
 
(……一生同じような服を着てる男の考えそうなことだ)

 休日は出かける二時間前に起きて身支度をする芳香とは違って、休み被りの日は待ち合わせの一時間前に起きる最上。片手で数えられるほどしか遅刻をしたことがない。そんな彼は二回に一回、同じ服を着てくる。その癖、人の服装はよく覚えているものだから、毎回服選びとメイクにどれだけ悩まされているか。
 それを知ってか知らずか、ネットで拾ってきたのだろう白飯の真ん中に大きな梅干しを詰めた弁当の画像まで送られてきて、もういよいよ返事を返す気もなくなった。
 ブロックするのは気が引けて、それでもトーク欄に最上の名前があるだけで嫌気が差したので、芳香は最上からの通知を切って、履歴を消した。
 機種変更してから一年強のやり取りが全て抹消されたことに、一瞬だけ後悔が湧いたものの、ほんの瞬きの間に鳴りを潜めた。
 そうこうして、気づけば二週間が過ぎていた。
 あの湿疹は五日も経たずに治ったが、その間にもう一度経過報告で病院に行き、治療は無事終わった。
 あの日から二日間は最上からのメッセージを未読のまま消して連絡を絶っていたが、それが向こうにも通じたのか、連絡はいつの間にか途絶えていた。それに気づいたのが二週間後だったのだ。
 公私ともに忙しく、休日すらほとんど家に居ない日が続いていたし、最上との連絡がなくても何ら障りはなかった。
 やっと忙しさも落ち着いてきた頃、思わぬところから連絡がきた。

 >最上さんに何かされた?

 同期のミライだった。
 芳香が本社に異動して二年。未だに最上と同じ店舗に彼女は働いていた。

 (そう言えば、履歴消したんだった……)

 今まで毎日交流していただけに、半月も連絡しなかったことで最上から何らかのアクションがあったのだろう。
 完全に最上に非があるという前提の内容に、芳香は笑ってしまった。ある時から、ミライが最上に苦手意識を持ち始めたことは知っていた。

 >ムカついたからトーク消して放置してただけ。

 そう送るとすぐに既読がつき、少し間があって返信がきた。

 >調子に乗りすぎたのは重々承知してるから、許してほしいって。
 >通知切ってるだけだよ?
 >未読スルーしないでくれる?って。

 芳香は呆れたように溜め息を吐くと、一旦ミライのトーク画面を閉じて、最上の通知
をオンにした。次の瞬間、最上からメッセージが届いた。

 >症状と部位的に気持ち的にダウンしてるだろうと、変な返信してしまいごめんなさい。とりあえず良かった。

 最上にしては珍しい長文に、芳香は苦笑いを浮かべた。

 (どうして欲しかったんだろうな、私は)

 心配してほしかった。そう意識はしていないだけで、心ではそれを求めていた。
 芳香は我ながら、自分が面倒臭い人間だと改めて呆れた。
 ただの上司と部下では納まらない関係性に期待することを諦めていたはずだった。しかし境界線が曖昧になり、自分でも知らないうちにだいぶ欲深くなったようだ。

(どこかで区切りをつけておけばよかった。そうすれば、こんなに気持ち悪い人間にならずに済んだのに……)

 ふと芳香の脳裏にある選択が過った。このままブロックして、連絡先も消して、完全に交流を絶てば、もう少しマシになるかもしれない、と。
 すると手の中のスマホが震えた。SNSの通知とは違い、バイブレーションが長い。
 液晶には【最上春明】の文字と通話の呼び出し画面。切ってしまおうかとも思ったが、芳香は五コールを過ぎてから電話に出た。

「ごめん、大丈夫?」
「……何がですか?」

 思いの外戸惑ったような最上の声色に、恐る恐る聞き返す。

「……いや、なんか居なくなっちゃいそうな気がしたから」

 最上の言葉に芳香は思わず息を飲む。と同時に笑いが込み上げてきた。

 (……なんか、もう、敵わないなこの人には)

「来瞳?」
「居なくなりませんよ、こんなことで」

 途端に数分前まで考えていたことが馬鹿らしくなって、声を上げて笑ってしまった。

 (本当、こんなことで)

 最上はしばらく黙っていたが、芳香の笑いが納まった頃、声を発した。

「額の腫れ、引いた? 痕になってない?」
「皮膚科に行って四日で治りましたよ。痕にもなってないです」
「よかった」

 最上の声色からは、からかいの色は見えない。彼の無意識なのか意図なのか、真面目な時ほど地声が低くなる。その声が、芳香は気に入っていた。二月ぶりに聞く声に、力が抜けた。

「お詫びしたいから、食事でもどうですか? 来週休み被ってる日あったでしょ」
「いいですよ。一銭も出しませんからね」
「そのつもりです」

 半月ぶりの会話はひどく心地よく、芳香は束の間、今まで抱えていた葛藤を忘れた。

 

 

 

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