事実をいくら沢山集めても、それだけでは歴史の意味は浮かばず、経験を積んだ歴史家自身の心の中で正しい道筋として統合されなくてはならないのである
池上俊一『歴史学の作法』東京大学出版会、2022年。
比較的最近でた歴史学の概論を述べた本ということで購入した。2022年は高等学校で歴史総合が始まった年でもある。そのため、歴史教育のあり方・問題についても言及しており、教育現場の方々にも参考になる部分が少なからずあるように思われる。
歴史学概論に関する本は、これまで無数にでてきた。執筆者の名前を挙げてみれば、遅塚、林、福井、色川などがすぐに思い浮かぶ。似たような本がごまんとあるなかで、本書の特徴は何になるのだろうか。
先ほどあげた執筆陣をみると、どうも近代史を専門とする方が多い印象である。一方で、本書を執筆した池上は、西洋中世史を専門としている。これまで中世史をフィールドとする研究者が、このような類の本を書いてこなかったなかで、この本を書いたことは重要な評価ポイントになるのではないかと思われる。本書のなかで登場する事例も中世史に関するものが少なくない。これまで近代史の視点からみたものばかりだったが、視点が変われば異なるものが見えてくるという意味で、注目すべき一冊であろう。
本書の批判点として、私は2点あげたい。一つはグローバル・ヒストリーについて。もう一つは歴史学の有用性・アクチュアリティについて。
一つ目のグローバル・ヒストリーについて、池上は「その有用性を否定しない」(46頁)とするが、一方で本来の歴史学と呼べるのか疑問であるとして、グローバル・ヒストリーに批判的な見解を示している。それはグローバル・ヒストリーには、一次史料の使用といった歴史家の調査技術は不要だったり、必須でなかったりするからだとする。
たしかに、一次史料を使用することなく、英語で入手できる情報だけで、また二次文献だけで歴史を描こうとする研究者が存在することは事実である。しかし、そのような研究手法は、グローバル・ヒストリーの研究者からも批判が提示されている。そのため池上の批判はグローバル・ヒストリー全般に当てはめることには無理があろう。そして、分野の一部に対する批判は常にあるものであろうから、その点は改善に努めていけば良いのではないかと思われる。
また、池上はグローバルヒストリアンである羽田がいうグローバル・ヒストリーの使命についても批判している。羽田は「人々に地球市民(住民)としての意識を強く持たせること」(47頁)をグローバル・ヒストリーの使命として掲げる。これに対して池上は、「地球社会への帰属意識を与えるのは現代歴史学の使命ではない」(47頁)と述べ、グローバル・ヒストリーの意義の一つを否定している。
池上はナショナル・ヒストリー(一国史)がナショナリズムを高揚させ、世界大戦にまで至らしめた過去を踏まえて、このような主張を展開している。たしかに、国家、民族への帰属意識を強く持たせることは、他の国家、民族との対立を生むことにつながるだろう。しかし、地球市民への帰属意識を持ったとして、「他の地球市民」なるものは存在しない。つまり、グローバル・ヒストリーは、ナショナル・ヒストリーが辿ったような対立を生み出す手段とはならないのではないかと思われる。
ただし、これまで池上のグローバル・ヒストリー批判に対して批判的な見解を示してきたが、一つ付言しておきたい。それはある歴史事象を説明しようとする際に、「グローバル」という言葉を使ったことで説明した気になっていたり、グローバルに考えずとも十分に説明できるような事象に対してもグローバルに考えようとする姿勢を持ったりする研究者がいることも事実であろう。グローバル・ヒストリーは歴史学の方法論の一つであり、目的ではない。その点を履き違えることのないようにグローバルヒストリアンは注意する必要があるだろう。
次に歴史学の有用性についてである。池上は基本的に、本書を読む限りでは、歴史学の有用性には否定的な立場をとっていると思われる。例えば、役にたつ歴史学なるものについて、「胡散臭さを感じてしまう」(14頁)と述べている。ただし、次のように述べている箇所がある。以下に引用しよう。
「どれだけ前後に伸ばせるか」のうち、特にどれだけ後ろに時間を拡大できるかという点に注目である。つまり、可能な限り後ろに時間を伸ばすことができれば、やがては現代にまで至ることになるはずだ。ここまでくれば、歴史学の有用性につなげることができるのではないだろうか。池上自身は意識していないことかもしれないが、役にたつ歴史学に通ずる部分を持ち合わせているように思われる。
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