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経済の金融化を強力に推進した新自由主義の実践は、途方もない所得格差をもたらし、世界的な金融危機を招くにいたった

佐々木実『資本主義と闘った男』講談社、2019年。

本書は理論経済学者、宇沢弘文の生涯をまとめた本である。同時に、経済学という学問の動向・潮流を丁寧に解説した手引書でもある。本書を通して、これまで縁の薄かった経済学という学問に関心を抱くことができた。加えて、経済学の動向もまた、現実の社会・政治などの影響を受けるとともに、それらに影響を及ぼしているということを知ることができた。本書を盛んに紹介していた大学院の教員の功績ということになろう。

本書の中心である宇沢は、天才肌という印象を受ける。経済学者としては遅咲きながら、メキメキと実力をつけ、多くの経済学者に注目される存在にまで上り詰めたからである。特にアメリカ時代の宇沢の業績は輝かしい。続々と新しい論文を発表して、学界のスター的な成功を収めていたように見える。しかし、日本帰国後の宇沢には、アメリカ時代ほどの輝きは見られない。経済学の論争ではフリードマン派に優勢をとられ、使命感にかられて関わった政治の世界でも敗北を喫した。アメリカにいた時と日本に戻ってきてからのこの対比には、驚かざるを得ない。それでも、欧米の研究者から、その著作を常にウォッチされるほど、彼の評判は高かった。宇沢がどこにいたとしても、彼が経済学にとっての重要人物であったことには変わりがないのだろう。

以下、私が関心を持った点を3つほど挙げてみよう。

まず、第1章である。ここでは幼少期から青年期までの宇沢の生き様が描写される。幼き頃から宇沢は尖った人物であった。ずば抜けて優秀だったという意味である。今ならギフテッドとでも見なされるような人物になるだろうか。本書の記述を読む限りでは、そのように見える。そんな彼を、当時の学校制度はうまく包摂していたように思われる。彼が第一中学校、第一高等学校という、当時の超エリート校に通っていたからかもしれない。エリート校には、それぞれに秀でたものを持ち、また他者のそれをも受け入れることのできるような生徒が集う。また、優秀な教員がエリート校には集っていたはずである。そのような状況は、今も大きくは変わっていないだろう。

尖った能力を持ったものたちのための教育というのは、昔なら、当時のエリート校でなされていたと言える。ギフテッドのための教育というややこしいことはせず、単に優秀な生徒が集える環境と、それに対応するだけの力量を持った教員を確保すれば良いのである。今なら、このような役割を果たしているのは、エリート校というよりは、大学附属の学校とかになるだろうか。

次に、経済学の学問区分である。日本では、経済学は文系として扱われる。それに対して、諸外国では理系として区分される、という言説をよく目にすることがある。日本で経済学が文系として区分されているのは、ちゃんとした歴史的背景があるようだ。

初期の経済学は、数学を使わなかった。経済学が数学を使う領域をも抱えるようになり、そしてそれが主流派となっていくのは、マルクス主義よりも後のことのようだ。そのため、数学を使う経済学を「しっかり」と主流派にできた国では、経済学は理系となったと言える。

では、日本はどうか。事情は複雑である。戦時下、日本ではマルクス主義が厳しく統制されていた。マルクス主義の思想を持ったものは、大学から追放されていた。この追放が終わるのは、ご存じのとおり、戦後になってからである。戦後、マルクス主義の思想を持った人物が、大挙して大学に戻ってきた。そのため、大学の特に経済学は、マルクス主義の牙城と化したのである。このような事情があり、本書によれば、他国の主要大学と比べて、日本はマルクス経済学の勢力が圧倒的に強く、数学を用いた経済学の広まりが遅かったという。そのため日本では、経済学は文系と区分されるようになったのかもしれない。

最後は、水俣病の研究と権力からの圧力である。日本に帰国した宇沢は、公害に対して強い関心を抱く。その中で、水俣病に関する研究をしていた人物とも関わりをもった。しかし、水俣病の研究をしている人たちは、公的研究費の獲得はまずできず、大学で昇進することもできなかった。水俣病の原因企業がチッソであると明らかになる前の段階で、チッソに対して疑いの目を向けるような研究をすることは容易ではなかった。チッソは、当時の日本経済にとって重要度の高い企業だったからだ。

国にとって不都合になるような研究は、今も昔も公的研究費の支援の対象にはなりにくい。公費を投入することに対して、国民からの厳しい視線が注がれることになるという事情もある。このような状況は、相対的に多くの資金を必要とすることが多い自然科学、医歯薬系の研究にとって、致命的な問題である。研究費を確保できなければ研究を続けられないような分野において、研究のための資金の確保は死活問題だ。そのような事情がある以上、研究テーマの決定時に、どうしても研究費のとりやすいテーマ、分野を考えざるを得ないからだ。そうなると、研究テーマの決定において、有形無形に国家の意向が反映されることになる。それは、学術の発展を妨げることになる。また、目先のことだけを見れば国家に不利益に見える研究が、のちの国家に利益をもたらす可能性を絶やすことは、迂遠ながら国家の発展をも阻害することになるだろう。

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