21.10.08 弾けないピアノ
いつかの梅雨の日の午後、
彼は僕の部屋にいました。
僕は目の前のピアノを指差して、
彼に何か弾いてくれとねだったのです。
白鍵に静かに両指を並べて椅子の座りこごちを神経質気味に確かめてから、彼は息を吐くように鍵盤を押しました。
僕は家族で唯一ピアノが弾けない上にクラシックなんてわからないけれど、確かにそれはどこかで聴いたことのある旋律だったのです。
昨夜に観た映画の中で、同じ音が流れて僕はあの時の音を思いだしました。
ベートーヴェン「ピアノソナタ第8番 悲愴」
昼下がりの下校の道で、
彼は僕に「いつか一緒になったら、働かなくても大丈夫なようにするから。」と言いました。
僕は咄嗟に「嫌だ。」と返して、彼が足を止めていたこたに気づかずに先を歩いていました。
いつか彼と一緒に暮らしてみたかったけれど、
世界がそれだけになることがこわかったのです。
映画の中の一度目と二度目のあの旋律の間で、
彼女は言います。
「結婚することが幸せの全てだとは思わない。でも何だかたまらなく寂しいの。」
何か弾いてくれと頼まれて、
あんなに寂しいのにどこか安心してしまうような
あんな曲を弾くとこが僕は好きだった。
けれども僕は、彼がローファーの爪先を止めていたのに、気づかないフリをしたまま歩いていたのです。
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