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置かれた場所から逃げなさい

帰宅してリビングのドアを開けると、ホッとしたように空気が流れる。
勢いで、残り1枚になった壁掛けのカレンダーが、不意を突かれたようにめくれ上がる。

心が凍っていた15年があった。
風が吹いても、空が青くても、花が咲いても、すこしも心が動かなかった。
見せかけの感動は、人との摩擦を避けるため。

心の底から泣きもしないし、笑いもしない。
分厚い氷の壁のせいで、楽しさや喜びからは遠ざけられるが、生きていられないほどの哀しみや怒りからも守られる。

決壊は、ある日突然やってくる。
たとえば、ドアの開閉でカレンダーがめくられるような、ささいなきっかけで。
予期せぬ奇跡を待つ甲斐は、ある。

解凍から、さらなる15年が過ぎた。
心には、名残りのような永久凍土がある。
けれどそれは、けして負の記憶だけではない。
凍った残土は、私が私を守った証だ。

「置かれた場所で咲きなさい」という名言がある。
名言やことわざには、大抵相反する二つの面があって、それを踏まえて言うならば、私は「置かれた場所から逃げなさい」と言いたい。
つらいときには。
せめて心だけでも。

気の持ちようで味わえるような小さな幸せを感じ取るには、まずある程度の精神の安定が必要なのだ。
その精神の安定は、実態のあるドカンとした幸せによってもたらされる。
家事や仕事や育児や介護や貧困や病気や多忙、それから人との確執から逃がられる(そういう時間が取れる)という大きな幸せがあってこそ、日常のささやかな変化に心を留めて、笑みを返すことができる。

人は、落ち込んでいる人を見るとつい「元気を出して」と励ましたくなるが、元気に見せることより、落ち込んだままでも、つらい現実の中で生きていけることが大事。

息の詰まるような暮らしの中では、深呼吸をすることさえ努力を要する。
たとえば、糞尿の臭いにまみれた部屋で深呼吸をしても、すこしも心が休まらない。
花の香など届かない。

花の香りに癒されるためには、外に出ればいい。
誰かに、あるいは神に置かれた場所から、自分で選んだ場所まで逃げる。
けれど、それができないときは、糞尿の部屋で鼻をつまんで臭いから自分を守る。
心を凍らせるとは、そういうこと。
そうやって、生きていく。

あの15年があったから、いまの私がある。
何がプラスで何がマイナスか、その答えは棺桶の中。

読んでいただきありがとうございますm(__)m