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鎖国中

私がヨーロッパを旅していたころ、観光地の外国人価格は珍しくなかった。
なので、私が店を選ぶ基準は、現地の言葉のメニューしかないところ。
たまに日本語メニューあります、みたいな店があるが、絶対に入らなかった。

最初はヴェネチアかどこかで、うっかり日本語メニューを出されて、たまたまよその人が見ていたイタリア語のそれを見せてもらって違いに気づいたのがきっかけだった。
そのときは「日本人目当てのぼったくり」だと腹を立てたが、後にそういうものかもと思った。
当時は、日本人が各地の「オーバーツーリズム」の元凶だったのだ。

バックパッカーの私は、そもそもあまりきちんとしたメニューのある店に入ることはなく、黒板とかホワイトボードに手書きでその日のおススメが書いてあり、なんだかわからなくて「これって何ですか?」と身振り手振りで尋ねると「あの人が食べてるやつ」と身振り手振りで答えてもらって、「じゃああの人と同じの」と身振り手振りでオーダーするという塩梅。
そうやってひとつずつ、外国語はできないもののメニューだけは覚えていくという具合だった。

だから、外国人価格の設定に、さほど抵抗がない。
そして私は、旅ケチ?観光地ケチ?というか情報ケチであるから、自分が良かったと感じた場所や店を、人にはほとんど勧めない。
写真を載せても「どこ」とは書かないことが多い。
繁盛を望む土地や店の人には申し訳ないが、ほかの人に知られたくない。
大勢の人に行ってほしくない。

テレビや雑誌やネットでお気に入りが取り上げられると、ガーンとなる。
ガーンとなりたくないので、旅番組はほぼ見ない。
その日に行こうと思っていた花畑が、たまたま朝のテレビ番組で取り上げられると、もう行くのをやめてしまう。
BGM代わりのyoutubeやBSNHKで、背景に場所を特定できない美しい風景が流れていくのは見る。

「ここが良かった」というのは、個人の経験や環境によって培われた感覚であり、その感覚こそ唯一無二のものとして大切にしたい。
その言葉に誘われて別の人がそこを見て「なんだ、大したことないじゃん」とか思うのも思われるのも避けたい。

とかなんとか屁理屈を言いながら、要は人がいっぱいいるのが嫌いなのだ。
好きな土地や店に大勢の人が押しかけてごった返している図とか、マナー違反などでそこが荒れていく姿を見たくない。
自分が行く国の歴史とか習慣とかマナーとか勉強してから来いよ!
お前が来るのは100年早いわ!とか思う。

現実とは別の気持ちの上だけで言えば、登山道が渋滞する名山(特に渋滞して危険なところ)などは、資格審査(装備や山の知識など)を設けるか、入山料を100万円とかにしてもいいと思っている。
富士山近くの例の黒幕を張ったコンビニの前の道路は、住民以外は通行料を取ってもいいとさえ。
観光は、そこに住んで日常を送らざるを得ない人の利便性や快適さを損なってはならないと思う。

だから、外国人価格を設定することで、オーバーツーリズムの解消につながるのなら悪くないと思っている。
駅の駐輪場とか、火葬場だって、その県や市に居住しているかどうかで値段が違うのだから。

コロナがあって、インバウンド頼みの観光業や他の産業に今後の工夫が見られないものかと願った。
日本の食料自給率が低いのもずっと気にかかっているが、改善する方向性も見られない。

日本はすごく弱い国なのよな。
大国に媚びへつらったり、二つ返事で支援を約束したりしないではいられないほど。

コロナと交通事故があったせいもあるけれど、せっかく離婚できて介護も終わったのに、旅に出ることもしていない。
人がいっぱいいる美しい観光地より、かわり映えのしない部屋でも私だけの空間を心地良いと感じるようになってしまった。

安宿を一軒一軒訪ねて、部屋を見せてもらって値段交渉するというような旅は、ネットが普及してからはもうできない。
かつて1日歩いてやっと見つけたお気に入りの宿も、いまは検索してすぐに予約できる。
部屋の写真だって載っている。
便利だけど、私にとっての旅の楽しさは半減した。

心が老いたのかとも思うけれど、結局、私の旅はいつも、家族からの逃亡だったのよな。
逃げる必要もないのに、テレビに映る人混みに飛び込んでいく気概がもうない。
私の心の国は、たぶん「鎖国」していると思う。


読んでいただきありがとうございますm(__)m