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「ちくわぶ」についてのあまりにもくだらない一考察

一昨日の夜、この秋初の「おでん」を煮た。
3日連続で食べている。
長く関東住まいだが、父が若い頃大阪で仕事をしていたこともあって、実家から引き継いだ私の味付けは関西風だ。
当然ながら「ちくわぶ」は入っていない。( 関西にはちくわぶはないと聞いている)。

「ちくわぶ」
このアヤシイ物体の正体を見て見ぬフリをしてきた。
私はこやつが苦手なのだ。
好き嫌いがいけないとは承知している。

しかし、いったいこやつはナニモノなのだ?
なにを企んでいるのだ?
胡散臭いことこのうえない。

結論から言えば、これは「麩」だ。
決して「竹輪」ではない。
竹輪は魚肉製品だが、麩は小麦粉である。
竹輪には、動物性としての威厳と栄養がある(はずだ)。
スケソウダラやサメを飼っている人にはわかると思うが、可愛がっている彼らの肉で、竹輪はできている。
小麦粉と一緒にされては心外である。
簡単に名乗ってもらっては困る。

第一まぎらわしいではないか。
磯辺揚げをしようと求めた「竹輪」の包み、開けてみたら「ちくわぶ」だったらどうか?
部屋中に青海苔を撒き散らかし、号泣すること必至である。
許せない。
なぜ、竹輪が抗議しないのか、私には不思議である。
彼らの大らかさに敬服するばかりだ。

小麦粉が原料なら「うどん」族の仲間に近いのでは?という意見がある。
しかしうどんなどの麺類は、立派に主食が張れる。
お好み焼きもしかり。
彼らは主食としての基盤を提供しながら、他の具の味を尊重するという美点も備えている。
見上げた心がけである。
ちくわぶにそれができるのか?

加えてあの食感の問題がある。
歯ごたえがあるのかないのかはっきりしない。
硬いのか、軟らかいのか不明である。
ただ、クチャクチャしている。
「はっきりせんかい!」とどやしつけたくなる。
しかし、どやしつけてもどこ吹く風的に、あさっての方角を見つめていそうである。
そこがまた腹が立つ。

世事に無頓着なフリをして、自身の扱いには妙に繊細さを求めるのも厄介だ。
「私って天然なの~」を免罪符に、どんな非礼で人を傷つけようとあっけらかんとしているくせに、ひとたび傷つけられたと感じると、涙で抗議・憤慨する輩と一緒である。

煮足りなければコナコナしているし、煮すぎれば煮崩れる。
どうしろというのだ。
おまえ一人にかかりきりというわけにはいかんのだぞ。

我が家の煮物には、どうしても犯してはならない罪がある。
それは「煮崩れ」である。
だから、夫がいたときのカレーにはジャガイモの投入が禁じられていたし、シチューのときは別待遇ののち、最終地点での合流である。
肉じゃがには細心の注意を払うことは言うまでもない。

「ちくわぶ」の「煮崩れ」こそ最悪である。
あられもない姿というのはこのことだろう。
恥じらいも節操も捨て去って、ベロベロに酔った年増女の醜態を連想させる。

道路の真ん中に置き去りにしたい衝動に駆られる私は薄情なのか?
しかしとても直視できないのだ。
それなのに、この煮崩れ女は、こんなときだけ私にすがるような視線を向けてくる。

私はしかたなく、どろどろくたくたになった身体を抱き起こし、酒臭い息を浴びながら、はだけた襦袢の襟をあわててかき合わせてやったりするのだ。

極刑に値する。

「溶けてゆく 煮崩れ女の しどけなさ 汁の濁りに 浮かぶ白肌」

読んでいただきありがとうございますm(__)m