げんてんかいき

原点回帰が必要らしい。

私は今なぜ「自分のやりたいことが何か」を考えているのだろうか?

1年ちょっと前、就活をしようとしたときに、違和感が拭えなくて(大人になる感じとか、自分で自分を食わせていくイメージがさっぱりだった)、やりたくないことはあるけれど、やりたいことっていざ言われると、わからなくて、むしろ「これ」と決めてしまったら、他の可能性が全部とりあえずなしになってしまう気がしたのだ。そんなことないだろうに。その可能性をなるたく全部担保したところに行けばよかったのに。そんな所を探す意欲も、余裕もなく来てしまったのだな。

初めて会った人に信頼してもらうって難しいな。わかりやすくその人の求める人間ではない時、切り捨てられるあの感じ怖い。あとは、自分のもっているステータスに期待される能力を自分が持っていない思う時、周りから向けられる視線とのギャップにしんどくなる。はーあ。つまり、臆病なのだ。

就活に対する違和感は、私の非現実的なふわふわ感によるものだけではなくて、市場経済に組み込まれることに気持ち悪さを感じていた、というのがある。全く過去形では語れないのだが。今の社会形態を見かけはそのままでも、根本から覆したいと思っているのに、それに加担するように動くというのが気持ち悪かったのではないかと思う。

私の思う面白いって何なのだろう?

やりたいことを実現している人がすごいなって思う。実践している人。自分の理想と現実の狭間を生きている人。もがいている人。知らないことを知っている人。面白がって生きている人。普通から少し逸脱していること。貧困(先進国と発展途上国、極度の金持ちと極度の貧乏、精神的な豊かさと貧しさ)や環境問題に対して良いアプローチを取ること。→貧困、環境問題関連で、勉強し続けながら、実践することができたら最高に面白いのでは?

本当か?

自分を変えてくれるような人に出会いたいのかもしれない。出会ってないのだろうか?

就職という選択肢が前にあるのは、人に出会えるから、新しいことを少しでも学べるはずだから、社会人をしたことがありますというステータス。あとは自分の身を立てれるわかりやすい手段だからである。

なんでこんなこと考えているんだ?

私は、10年後何していたい?

実践の真っ只中。あと、10−15年で日本の社会形態は中身が変わるはずだと思って何かを実践していると思う。その中身の変化というのは、個々の人間の社会における自己認識が平坦(自分の価値を自覚して自信を持てる)になり始める、ものやサービスのサプライチェーンは短くなり、虐げられる人々へ意識が向いたり、薬品を使うことで長く保つようにしなくても良いものが増え、自分で使える時間が増え、永遠なる成長競争から少し開放され、人間は健康になり、やる気の出ない人が少なくなる。みたいな感じである。

何を実践しているのだろう?

今住んでいる町をそういう場所にしていくのだろうか?そうしたら、町長になるのだろうか?もっと小さなコミュニティにおいてか?それでは日本の社会とは言えない。むしろ、日本社会(制度や慣習)にぶち当たるのではないか?

ある程度貯金を持ち、自分の身を自分で立てられて、かつ社会問題に向き合いながら、豊かな生活を実践する。大豆作って、豆乳と豆腐作って、美味しいチャイ飲みながら、生き方の模索の手伝いができる人になる。自分にとっての武者修行したいな。どこで?何を?院でならできる気がする。だって私レポート書くの苦手だから。絶対的な武者修行になる。

ただの思考の整理でした。

今日は、これ聞いた。ふじくんは天才なんだろうって思っている。

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