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人間としての「格」に捉われる私

オチのない話。

例えば、自分にとっては大切に思っている友人からLINEが1ヶ月返信がない、グループLINEで意見を求めているのに全員から既読スルーされる、みたいなことが、たまたま同じ時期にいくつか続くとする。

すると私はついつい

 ”あぁ、○○にとって、私はどうでもいい優先度の低い存在なんだな” 

と考えてしまう。調子が悪いときは

 ”私は誰からも必要とされてない、生きる価値のない人間だ”

と落ち込んで大泣きしてしまう。(ここでは関係ないけど、自分から連絡しないと、ほとんど遊びやご飯の誘いがないことに対しても定期的に考え込んでは落ち込んでしまう)

そう考えている渦中でも一応「相手にも返信できない事情や理由がある」「そもそも私も大切な友人だけどLINE長期間返せてない人おるしな」「誰からも必要とされてない訳ないやろ、連絡取れてないのもたかが数人や」と、正論を自分で考えられる力は残っているのだが、どんなに考えても、

”私みたいな人間だから返事が返ってこないのだ(他の△△さんみたいな優しくて可愛い人気者だったら直ぐに返信が返ってきているに違いない)”

みたいな思考から離れられず、

”私って生きる価値ないな” ”生きてる”意味なんぞない”

という極論に走ってしまう。

昨今、日本は大谷翔平(敬称略)の結婚ネタで賑わっているが、上記のような状態で絶賛病んでいた私は「大谷翔平との人間との格の違い」を考えては絶望していた(まじでおこがましいにも程があるだろ笑)。

大谷翔平は、こんなに世のため、人のため、様々な人に配慮した発言が自然と出来て(自然と…が結構ミソ)、野球一筋で、結果も出す、完璧やんけ。

それに比べて私は、自分本位な考えしかできない、なんて最低な人間なのだ、人間としての格が違いすぎる…!

といった具合。自分でも何おかしなこと考えてんだって自覚はあるのだけど、そういうときに思考を自分で止めることが出来ない。

帰宅して夫に「~~やしな、大谷翔平と自分とは人間としての格が違い過ぎてな、自分はなんてダメ人間なんや、って思うんよ(自分でも言ってて可笑しくて、夫に話しながら笑ってしまうレベル)」と話すと

「大谷翔平も自分の存在で他人が落ち込むことを望んでないと思うよ」

と言われ、なんか、妙に納得してしまった。

「そもそも格とかないやろ。よっぽどのクズ男じゃない限り(笑)」と。

人間は多面的で、1つの側面だけを見て、比較して、優劣をつけるなんぞ、短絡的過ぎる、またその側面に対して、相手がどう思うか、相性や関係性の問題もある、格なんぞ、計り切れるわけない、というのが夫の言い分らしい。

正論過ぎて、ぐうの音もでない(喧嘩してたわけではないけどさ笑)

はぁ、事前に準備していたわけではないのに、訊かれてすぐ、そんな回答ができるなんて、夫の思考はなんて素晴らしいのだろう、私とは人間の格が違う、懐の深さが違う…

と結局は人間の「格」に思考が戻って、比較しては落ち込んでしまったのだが(笑)。

そんなこんなで、夫には「俺の助言や提案に従った試しがない」と苦笑されながら、今日を終えた。


余談

頑張っている自分に価値はない、他人と同じぐらい、平均的な頑張りなのであれば、それは「頑張っている」ことにならない、という思考から抜け出すことができない。

どんな人間であっても「人間としての価値」に優劣がつくものではない、と頭では理解しているが、どうしても自分のなかに落とし込めない。

世の中、競争社会で、他人と同じような努力をしていては、勝つことができない、他人より努力して、結果を残して初めて「頑張った」と言える。

努力できていない、仕事できていない、家事育児をこなせない、ような私は価値がない、と思ってしまう。

何年も福祉を学んできた人間として、その考えじゃない、考え方の知識は十二分に学んできたし、他人に対しては一切上記のような考えを当てはめることはしないし、夫からも再三「そんなんで価値は変わらないよ」「居てくれるだけでいいんだよ」「僕が一緒に居たいから、結婚したんだよ、今でも十分楽しいよ。生きててほしいよ。」と言ってもらえるのに、考えを改めることができない。

長年かかっても治せそうにない。最近はもう、治さなくてもいいのかなとも思ってきた。どんなに頑張っても、”頑張れる自分=価値ある自分” の思考から抜け出せない自分を認めてあげる、という考えは、まぁ数年前から持ち合わせてるんだけど…。夫に、ストイックな考えではなあるけど、私の考えも間違いではない、いけないわけではないと、認めてもらうことが増えたからである。

昨今は自己肯定感ブームで「頑張らない」「ありのままの自分」がテーマの本も多い。でも、やっぱり競争社会で他者と比較して順位が付く、選んでもらう、ことが大事な社会も現実には沢山あるわけで…。そことの矛盾に私は一種の気持ち悪さを感じて、落とし込めずにいた。だから夫に自分の考えも間違いではなくて、必要な思考なのでは、と言ってもらえて少し嬉しかった(私はちょっとストック過ぎるところがあるけど)。

自分は、0.100思考ですぐ病むし、すぐ極論に走ってしまうし、完璧主義だし、間を認めるのがすごく難しい性格だと思う。けれど例えば「嫌な仕事だけど無理して続けている自分」=偽りの自分、「好きな仕事に転職して生き生きしている自分」=本当の自分、みたいな、パキッと二極化している考えには疑問が残る。

体調が悪くて夫に何度も同じ質問をしたり、自動思考から抜け出せない自分も、すごく元気で活動的な自分も、全部、全部「本当の自分」だろ、と思う。”自分が好きな自分” ”理想的な自分” 以外も「本当の自分」だし、自分の好きな自分になれなくて、葛藤している姿も、言いたいことが言えなくて悩む姿も、全部、自分だし、そこに、本当も偽りもないよって。それこそグラデーション、スペクトラム?っていうの?だろって。

なんか、終わりが見えないし、そろそろ寝ないと、明日がやばいから終わる。おやすみなさい




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