しんでしまうことは時を止めること
自分が29歳の時、30歳になったばかりの一つ年上の先輩が亡くなった。自死だった。一緒に仲良くしていた先輩から、泣きながら電話がかかってきて知った。留守番電話が入っていたことに気がつかなかったと。その留守番電話を吹き込んだ直後に彼は亡くなっていた。まだ雪が残る冷たい川のそばで。
留守番電話には、死を知らせてくれた先輩と私がいつまでも、仲良く居ますようにと吹き込まれていた。おちゃらけた様子で。でもそのすぐあと、私と先輩は仲良しではなくなってしまった。
その翌年大きな地震があって、世の中が大きく変わったように感じた。亡くなった先輩はそのことを知らない。原子力発電所の爆発。津波で2万人の犠牲者。様子の変わってしまった街。
仲間はどんどん結婚していって、子供が生れて、大きくなった。そのことも先輩は知らない。新型感染ウイルスが世界で広まって、外出に怯えたあの頃。変わってしまった世の中。先輩は知らない。
何かが世の中で大きく変わるたびに、先輩はそれを知らないんだなと思う。亡くなるということは、そこで時が終わることを意味すると思った。
27歳の時、前例のない病を患った。
医者も困っていた。その病症が本来発症する臓器で発症した場合、余命は5年と言われた。前例がないのでもっと早いかもしれないしそうでないかもしれないと説明された。
それで世をはかなんだ。やりたいことをやっておかないと後悔すると、考えるようになった。この死への覚悟は、周りに話しても理解してもらえない年齢だった。あるいは自分の身の振る舞いが悪くて、寄り添ってもらえるような友人がそばにいてくれるような私ではなかったのかもしれない。
同時期に同じく余命を言われていた8つ上の友人が、私にとても優しかった。手術の時も、当時お付き合いしていた人が来れなかったのに、友人は来てくれた。そのあと一緒にラドン温泉へ通ったり、体調が良くなくて弱気になると「だいじょぶだいじょぶ!」と小島よしおのものまねで私を笑わせた。その友人も、私が29歳の時に亡くなった。唯一の理解者が先に行ってしまったことが辛くて、葬式に参列している間、一人でたくさん泣いた。
ある日彼が夢に出てきて、クレヨンで、私の大好きな車の絵を描いてくれた。そして遠ざかっていって、それきりだった。
同じ時期に祖母も亡くなった。
外孫だったので思い出は多くなかった。絵を描いたり陶芸をしたり、作品がたくさん残されていて、手先の器用な人だった。どういう人物なのか知らないけれど、葬式の参列者は驚くほど多かった。この人が生きたから、私が生きているのだと思った。通夜、火葬、葬式と時を過ごすにつれて、何度も思い出話をしては発作的に涙する親族をみて、家族って、誰かの死を乗り越える為に一緒に居るのかもしれないと思った。
父も亡くなった。
正しくは、亡くなっていた。私が26歳の時に。
知らされたのは後になって、私の大きな手術の時だった。漠然と、いつかなんとなく会える気がしていたのに、とっくに死んでいたのだった。勝手にみんな、死んでいくと思った。30手前で何度も喪服を着て、そのたびに私はずっと孤独なのに、さらに孤独になるんだと思った。
先輩も、友人も、祖母も父も、あのときで時が止まっている。
私だけが、老いていく。老いて外見の魅力が失われても、一緒に居た時を認め合うために、肯定するために、人は結婚するのかな。
先輩が亡くなったとき、先を越されたなと思った。
どうせならきれいなままで終わりたかったと私も思っていたから。ご両親の悲しみようは本当に気の毒だった。しばらくご実家に通っていっしょに時を過ごした。大勢の仲間が参列して盛大に行われた葬儀で、わざわざ何時間もかけて東京からやってきた友人が、突然わっと声を上げて泣いた。こんな思いをだれかにさせるなら、もう私は死ねないなと思ってしまった。私だってこころが張り裂けそうに悲しかった!
ごめんなさい。ずっと仲良くいてほしいという願いを、かなえられなかったこと。そんなふうに自分の心が変わってしまったこと。一緒に闘病を励まし合っていたのに、私は生きていること。裏切ったこと。
川に行くたび、小島よしおをみるたび、きれいな絵や陶芸をみるたび、父子をみるたび、思い出す。でもだんだんと記憶は薄れて、同じシーンしか思い出せない。それを共有する人がいないのがつらい。私の心にしかいないのに、私しか証がないのに、肝心の私が変わっていってしまうことが悲しい。でもそれが生きていくことらしい。だからごめんねって謝ってる。私はこれからも変わってしまうかもしれない。でも折に触れて悲しい気持はずっと変わらないんだよ。あなたが居なくて、私だってとても寂しい。
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