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サナトリウム201号室

 くすんだグリーンのリノリウム。留まった儘、淀んだ空気。窓。格子。細い木の枝が見える。
 凡そ簡素なベッドに、白は四六時中寝ている。病。それは三歳のときに始まり、十四歳の今迄一度たりとも良くなることは無かった。
 「そろそろ、春たろうか。」
呟いても、答えは無いに決まって居る。独りだから。白は、ずっとこの201号室に唯一人きりだった。
 春の花の香りは、この窓に届かない。格子が嵌められ、閉じ切った硝子窓。壊したいと願っても、力は残されて居なかった。
 躰は壊れて居た。
 痛みだけが残された。
 譫言。悪夢。点滴と、薬と、生温い水。
 白は、酷く痩せこけて居る。三十キロに及ばない、壊れそうな骨ばかりが目立つ青褪めた躯体で、唯横たわり、時を待つ。眠りは薬でしか訪れない。
 今はいつなんだろう?僕はいつになったら死ねるのたろうか?
 神様。神様に赦しを乞う。どうか殺してください。僕を見放して。
 点滴の針が抜けた。微かな痛みがあった。白は、未だ生きて居た。可笑しな事だと思った。
 機械が反応したのか、看護師がドアを開けた。眉間を顰めて針を直しながら言った。
「手紙、来てるけど。此処。」
「ーーーえ、」
白は眼を見開いた。水色のビー玉の眼。
 ベッドの脇の小さな机に、手紙は確かにあった。満月の絵が印刷された封筒に、セロテープが十字に貼ってある。震える右手を伸ばし、そっと取った。
 セロテープは破れたけれど、手紙は綺麗に折り畳まれて白の細い手に在る。読むのはとても怖い。怖いよ。
 "誰だか知らない君へ。201って数字が好きだから書くけれど。馬鹿みたいな病院に居ないで、逃げて来なさい。それくらい出来るでしょう?あたしに逢いに来て。春の野原に居るから、待ってるから。それだけ。リリイより"
 リリイ。知らない。滅茶苦茶な手紙だ。僕には何も出来ない。
 いや?逃げ出す。それくらいなら、人も居ない此の病院なら、出来るのかも知れない。でも春の野原なんて何処に在るんだ?
 「うん、行くよ。」
 急に身を起こすと、咳と頭痛が襲ってきた。自分の頭に爪を立てながら、白は右足をリノリウムの床に付けた。冷たい。力が入らない。左足も下ろして、全身で震えながら、何度も崩れ落ちながら、十数分かけて白は立った。
 立っている。僕が?あゝ、まだ死んで無かったんだ。
 歩き方を忘れた少年は、酷く奇妙な歩みをしていた。壁に、柱に、しがみつきながら病室を出て(きみのすきな201。)、階段を座るように降り、手紙を握り締めた手を伸ばす。
 不意に光が差した。
 春の陽光。
 眩しさに潰れる双眸。
 世界は、春に満ち満ちて居た。明るすぎて、泣きそうになる。光、それが、それが僕は欲しかった。何も要らないよ。光の中に、ねえ、僕は---。
 馬鹿らしい事に、病院の目の前が野原だった。約束の、春の野原。
 幼い頃に覚えた花も咲いて居た。白詰草、たんぽぽ、ホトケノザ、あとは分からないけれど。
 遠くに、長い赤茶の髪がたなびいて居るのが見えた。
「リリイ!」
 白は叫んだ。けれど声は出なかった。いいんだ、僕は行くよ、君の処迄。
 転びながら歩いた、草花は優しく、柔らかに躰を受け止め、誘う、春を、春の道無き道を、行け、行くんだ。今だよ。
 声を掛けようとした間際、赤茶の髪は振り向いた。大きな美しい眼をした少女。微笑んで。
 白は思った。これは救いなんだ。これが生なんだ。この女の子は笑っている?僕に?生きて居る!!!!
 リリイは、白の小指を掴んで齧った。
「あんまり美味しく無い。君、名前は?」
「し、ろ、白---。」
 少女は、口を開いて、し、ろ、とかたちを取った。白の名を呼んだ人は、これ迄一人も居なかった。ねえ、初めて、君が、名前を呼んでくれた。僕の名前。
 リリイと白は、花々を踏み倒して寝転んだ。草の匂いがした。
 生命。芽生え。季節が変わって居た。春は生きて居る季節なんだ。
 何も言わずに、二人はいつの間にか眠った。土は暖かくて、風が髪を撫でてゆく。
---ありがとう、神様、ありがとう。僕は未だ大丈夫。祈りはしないけれどね。明日は笑ってみようかな。
 眠りはいつ迄続くたろうか。それがもし永遠でも、構やしない。
 また、春風。
 青。空。
 春には素敵な事が起きるんだ。ねえ、屹度。信じて。

おたすけくださひな。