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行きずりなんかじゃなかった

 喧噪とした都会から離れて久しぶりに旅に出ると、思いも寄らぬ着想がふっと浮かぶことがある。そのために丸古三千男はわざわざこの温泉宿に逗留しているのだから、何も浮かばなければ困るわけだが、そう言いつつも、昨夜は部屋でずいぶん飲んでしまったせいで朝から頭がぼんやりとしていた。
「こういうときこそ風呂だな」
 朝食のあと軽く温泉に浸かると、ようやく酒が抜けたように思えた。
 朝の温泉街は夜とはまるで違う姿を見せる。シャッターの降りた店と店との間に濛々と立ちこめる煙は、朝の光を白く弾きながら霞のように小さな街を包んでいた。街はシンと静まり返っている。鳥の鳴き声と救急車のサイレンだけが遠くから微かに聞こえていた。新しい客が着くのはたいてい午後だから、どの土産物屋もまだ開いてはいない。
 浴衣姿でブラブラと散歩しているうちに、ようやく思いついたことがあって、丸古は急ぎ足で宿に戻った。
「お帰りなさいませ」
「ああ、そうだ。何か甘いものを」
 馴染みの仲居に茶と菓子を頼んで部屋に入ると、広縁の卓に原稿用紙を広げ、ペンを手にする。たった今思いついたばかりだが、これは一気に書き上げたい。
 何気なく目をやると眼下には新緑が萌えている。木々に囲まれたこの宿は、周囲だけを見ればまるで山にあるように思えるが、実は、その木々のすぐ向こうには海が広がっているのだ。そんなわけで、森と海の両方の気分を楽しめるこの宿を丸古はかなり気に入っていた。
「それにしても汐風にやられないものなのだな」
 窓外の景色を見ながらあれこれ感心しているうちに、丸古はさっそくウツラウツラとし始めた。
「先生、お茶とお菓子をお持ちしましたよ」
 いきなり夢の世界から無理やり引き出されたように、その声でハッと我に返る。
「お、うああ。いかん、これはいかんよ」
 呻き声とも返事ともとれない奇妙な声を出して丸古は室内に体を捻り向けた。
「菓子はそこに置いてくれ」
「はい」
 仲居は和室の卓袱台に茶筒と菓子を置き、電気ポットのスイッチを入れた。
「どうですか、お原稿は」
「うむ。なんとか書けそうだ。たぶんな」
「それは良かったですね」仲居がにっこりと笑う。彼女とはもう十年近い付き合いになる。他の若い仲居が次々に入れ替わっても、ここに泊まるたびに丸古の部屋を担当しているから、すっかり気心も知れている。
「そういえば、先生」
 そのまま卓袱台に乗っていたゴミを屑籠へ入れようとしたところで、仲居はしばらく止まって、じっと屑籠の中を見つめた。
「どうした?」
「いくら先生でも、やっぱり困りますよ。うちはそういう宿じゃないんですから」
 仲居は顔を上げて軽く睨むような顔つきのまま、声を潜める。
「ん? 何がだ?」丸古の片眉がヒョイと上がった。
「しらばっくれないでくださいよ」
 そう言って仲居は肩をすくめた。何もかも解っていますよとでも言いたげな表情をしている。
「連れ込みましたよね?」さらに小声になった。
「昨日の夜に」ほとんど囁き声だ。
「いや、まさか。何のことかわからんよ」
 丸古も釣られて小声になる。
「わかっているんですよ。仲居たちの間でも噂になってますから」
「いやいやいやいや、ちょっと待ちなさい。何の話だ。私は何もしていないぞ」
 思わず丸古の声が大きくなった。
「まったく、行きずりのカニだなんて。聞いた私の方が恥ずかしいですよ」
「え? カニ?」丸古の口がぽかりと開いた。
「ほら、覚えがお有りなんでしょう?」
 確かに昨夜はカニを持ち帰って、部屋で一杯やった。それで飲み過ぎたのだ。
「だが、あれは浜の魚屋が酒のアテに持って行けと渡してくれたもので」
「またそういう言いわけを。先生は困るとすぐに言いわけをなさいますから」
 仲居は畳に座り直した。背筋をピッと伸ばして首を軽く傾ける。
「いや、本当だ。本当なんだよ。本当にカニはもらったものなんだ」
「カニを部屋に連れ込んだことは認めるわけですね」
「いや、ちがう。あのカニは行きずりなんかじゃない。あれはちゃんと茹でてあったし、剥きやすいように切れ込みも入っていたし」
 丸古の口調がしどろもどろになった。自分でも何を言っているのかよくわからなくなっている。

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