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言語の選択

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 昼食時だけあって、カウンター席だけの小さな店はそれなりに混んでいた。飯尾は券売機で買った食券をカウンター台に乗せて、騒がしい店の中でも聞こえるように、やや大きな声を出す。
「チャーシュー麺をお願いします」
 頭に黒いバンダナをきつめに巻きつけた大将らしき男性が、忙しなく手を動かしながら、チラリと目だけをこちらに向けて聞いた。
「麺の量は?」
「あ、普通で。硬さも普通で」
「トッピングは?」
「あ、なしで」
 一瞬、大将の目が丸くなった。メンマだのモヤシだのをこれでもかと言わんばかりに山盛りにして出すことで有名なチェーン店だから、トッピングを頼まない客は珍しいのだろう。
「えっと、トッピングなしですね。はいよ。チャーシュー並み並みでぇ」
 大将は奥に向かって声を張り上げた。
「はい、チャー、なみなみぃ~」大きな声が返ってくる。カウンター席からは見えないが、厨房があるのだろう。
 手持ち無沙汰になった飯尾はとりあえず水差しの水をグラスに注いだ。
「お客さん、すみません」大将がひょいとこちらを覗き込んだ。
「はい?」慌てて飯尾は顔を上げる。
「チャーシュー麺は、何語で?」
 そう言いつつ大将は、若い店員が奥の厨房から運んできたラーメン丼を両手でしっかりと受け取った。
「え?」
「チャーシュー麺、言語はどうされますか?」手は丼を摑みながらも顔は飯尾に向けたままだ。
「え?」
 戸惑って黙り込んだ飯尾を置き去りにして、大将はカウンターの端まで素早く移動した。半身を乗り出して、ほとんど音を立てずに大きな丼を客の前にすっと置く。
「はいネギラーメンの麺硬め大盛り。もやしとキクラゲのトッピング、デンマーク語ね」
「どうも」
 野球帽を被ったその客は、カウンターに置かれた胡椒を丼めがけてたっぷり振りかけた。レンゲを丼に差し入れてスープをすくい上げると、ズズッと音を立てて一口飲む。
「あああ、レッガー」
 満足そうに軽く目を閉じて、鼻から息を吐いた。
「タク」大将が頷く。
 ゴトン。すぐ手前の男性客が丼と餃子皿をカウンター台に乗せ、楊枝入れから一本爪楊枝を抜き出して口にくわえた。
「プレディヴノ」男はそう言って入り口に向かう。
「フヴァラレーポ」
 大将は戸を引いて出て行く男の後ろ姿に向かって大きな声を出したあと、台から丼と餃子皿を引き上げ、厨房まで運んで行った。
 いったい何をどうすればいいのか。一連のやりとりを見た飯尾の眉間に皺が寄る。こういう店にはたいてい独自のルールがあって、常連以外は戸惑うことになるのだ。しかも、誰もルールを教えてはくれず、一見の客がまちがうのを見て楽しむようなところさえある。たかだかラーメンの注文一つでバカにされるのだから腹立たしい。
 飯尾は目の前のメニューに手を伸ばした。表紙をめくったところに麺の硬さやら油の量やらトッピングについては、あれこれと細かく載っているし、裏表紙には、まずスープを飲めだの途中で調味油を足せだの、最後に小ライスを入れろだのと、食べ方についてもいちいち小うるさく書かれているが、言語についてはどこにも書かれていない。おそらくこの店独自のルールなのだろう。
 飯尾はグラスの水をぐいと飲んだあと、隣にいたスーツ姿の客にそっと話しかけた。
「お食事中すみません。いま召し上がっているそれは何ですか?」
「え? これですか? 普通のラーメンですよ」
 おそらく近所に職場があるのだろう。社員証が首からぶら下がったままになっている。
「何語ですか?」
「はい?」スーツの男性が怪訝な顔つきになった。
「いや、大将にチャーシュー麺の言語は何語がいいかと聞かれまして」
「さあ? 私にはちょっとよくわかりませんが」
 まるで飯尾がおかしなことでも言っているかのように、男性は肩をすくめつつ首を左右に振る。
「で、お客さん、言語は決まりましたか?」大将が再び尋ねてきた。
「えっと、その、ほら」
 飯尾は助けを求めて隣のスーツ男性に目をやったが、彼はちょうど食べ終えたらしく、ふうと大きな息を吐いて立ち上がったところだった。
「チャルモゴッスムニダ」そう言って席を立つ。
「カムサハムニダ。トオセヨ」大将は男に向けて、よく通る声を出した。
「ハセヨ〜」
 飯尾は自分の胃がカッと熱くなるのを感じた。なんだよこいつ。何語かわからないと言っていたくせに。ぎゅっと拳を握りしめる。
「おい、ちょっとあんた」飯尾は男の後ろ姿に向かって声を荒らげたが、彼には飯尾の声などまるで聞こえていないようだった。
「ちょっと待てよ、おい」大声を上げる飯尾を無視して男は店を出て行く。
 ふざけやがって。飯尾は再び水をグラスに注ぎ、一気に飲んだ。
 気がつくと大将が腕を組んでこちらを見下ろしている。
「お客さん、どうされます?」
 店の奥からはさっきの若い店員が顔を覗かせていた。飯尾が答えないと調理に取りかかれないのだろう。飯尾はカウンターに置かれたメニューを何気なく手に取った。すでに注文は終わっているので、いまさらメニューを見る必要はないのだが、それでもなぜかパラパラとめくってみる。
「えーっと、それじゃあ、フランス語で」
「はあ?」大将の口がぽかんと開いた。
「えっ、ダメなんですか? フランス語は」
「あたりまえでしょう。なに言ってるんですか」大将はムッとした声になった。
「あっ、そ、それじゃ、英語は?」
「お客さん。うちの店をバカにしているんですか?」
「いや、そんなつもりはないんです。ただ、ちょっとルールがわからなくて。それじゃ、あの、デンマーク語で。デンマーク語」
「いや、お客さんには無理でしょう、デンマーク語なんて」
「いやでも、ほら、あのお客さんはデンマーク語でしょ」
 飯尾はさっきの野球帽男を顎の先で差した。
「ふう」大将はカウンター台に手をつき、何かをガマンするように首を振りながらしばらく目を閉じる。やがてすっと目を開けて飯尾をまっすぐに見下ろした。
「いいですか。あの人はネギラーメンです。だからデンマーク語でもいいんです。お客さんはチャーシュー麺ですよ。チャーシュー麺でデンマーク語なんて、常識的に考えてありえないでしょう」
 諭すような口ぶりだった。
 ああ、めんどうくさい店だな。独自のルールだかなんだか知らないが。とにかくめんどうくさい。そう思った飯尾は、それ以上考えることをやめた。もうどうでもいい。さっさとチャーシュー麺を持ってきてくれ。
「じゃあ、日本語でいいよ。チャーシュー麺の量も硬さも普通のやつを、日本語で」
 そう言い切って視線を下げた。グラスの周りには水滴がたっぷりとついている。
 もはや飯尾には大将の返事を待つ気などなかった。もしもこれでもまだあれこれ言ってくるのなら、席を立ってそのまま店を出ようと思っていた。
「に、日本語ですか?」大将の声が裏返った。
 それまでどことなくざわついていた店内がしんとした静けさに包まれる。有線放送の演歌が終わると、あとにはカツカツと何かを切る音と、湯の煮え立つ音だけが厨房から聞こえていた。
「日本語?」
 客の一人がそう言って、ガタンと椅子を鳴らす。
「チャーシュー麺で日本語だと?」
 その向こうから驚嘆の声が上がった。再び店内がざわつき出す。
 パチ。パチ、パチパチ。 
 やがて客たちが飯尾に向かって拍手を始めた。
 大将が頭から例の黒いバンダナをすっと外し、カウンター越しに飯尾へ渡そうと手を伸ばした。
「これを」
「これって?」
「チャーシュー麺で日本語ですからね。今からあなたが店長ですよ」
 飯尾は大将の勢いに押されたかのようにバンダナを片手で受け取った。
「さあ、こっちへ」
 言われるがままカウンターの端から内側へ入る。
「それじゃ、あとは任せましたよ」
 大将が飯尾の手を両手で包むようにしてグッと握った。
「はい」
 飯尾も大将の手を力強く握り返したあと、黒いバンダナを頭にしっかりと巻きつけなおした。最初からこうするべきだったのだ。そんな思いが胸の奥に広がっていく。
 飯尾は口元をグッと引き締めながら、ゆっくりと腕を組んだ。
 そうしてカウンターの内側から店内をぐるりと見回す。客たちは満足そうな顔をしてそれぞれの丼に向かっていた。

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