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風は二回吹いた

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 どこまでも続くように見える長い長い上り坂は、途中でいちど平坦な道になったあと角度が急になる。山に住む子は学校帰りにたいていこの平坦になったところで一度足を休めることになっていた。道沿いに立ったマンションの非常階段に座り込んだり、駐車場でジュースを飲んだり、あるいは神社の境内に置かれたベンチに腰を下ろしたり。そして気が済むまで笑って話して日が落ち始める頃、ようやく再び坂を登り始める。
 亮子は妙に緊張した面持ちのままマンションの陰に体を潜ませていた。茂禄子と里桜も一緒に隠れているが、二人は亮子ほど緊張してはいない。
 坂の下から制服姿の男子が四人、ダラダラと話しながら上がって来るのがマンションの塀に空いた僅かな隙間からもはっきりと見えていた。四人はバスケ部の三年生だ。
「こういうのはタイミングだからね。勢いだからね」
 里桜が真剣な表情で言う。
 亮子は口元を硬くして、さっきからチラチラと何度も見ている青い封筒にもう一度目をやった。今までに二回渡そうとして、その度に気後れをして渡せずにいた手紙だった。
 ドクン。
 心臓の音が傍らに立つ二人にも聞こえそうなほど大きくなっている。
「わかってる」
 今日は絶対に渡すのだ。冬休みに入る前に渡せなければ、年が明けたらすぐに卒業式が来てしまう。亮子はそっと手袋を外して封筒を手で直接持った。特に理由はなかった。なんとなくそうしたかった。
 中身よりも渡し方だから。渡すときのインパクトが大事だから。みんなあれこれアドバイスをくれるものの、それが本当に正しいのかどうかは渡してみなければわからないことだ。
 男子たちの姿がしだいに大きくなってきた。大きな笑い声がマンションの陰にまで届く。女子と違って男子は笑うときになぜか鞄を振り回すから不思議だ。
 亮子は塀の隙間から眩しそうに彼らを見た。四人の向こう側ではどんよりとした冬の夜が山影を包み込もうとしている。
 その中の一人にじっと視線を送った。比嘉先輩だ。
 比嘉にはどこか冷めているところがあって、みんなが笑っている時でもあまり笑わない。試合で完璧なガードを見せたときにもチームメイトに軽く手を上げるだけだし、僅差で三点シュートを決めたときでさえ、さほど喜ぶこともなく淡々とポジションに戻る。
 今日もほかの三人が背中を叩き合って大笑いしているのに、彼はほんの少し口の端を持ち上げるだけで、目にはいつもの静けさが残っていた。
 もうすぐそこまで来ているのに、亮子は急に自分が弱気になっていくのを感じた。もしもあの静かな目でじっと見つめられたら、たぶん息が詰まって手紙なんて渡せなくなりそうな気がする。
 亮子は駐車場に駐まっている車のガラスに映った自分の顔を見た。この間、切りすぎた前髪はまだちゃんと伸びていない。これだったら後ろに束ねておくほうが良かった。
 やっぱり無理かも知れない。そう二人を振り返ろうとしたその瞬間、トンッと強く体が押された。
 弾みでマンションの陰から道の真ん中へフラリとよろけ出た亮子は、手紙を持ったままその場に立ち尽くした。
 ほんの十メートルも離れていないところに比嘉先輩がいる。
 自分の顔が赤くなっていることはわかっていた。頬が、耳が、首が、焚き火にあたったときのように熱くなっている。膝に力が入らず一歩を踏み出すことができなかった。
「ほら亮子、言っちゃえ」
「早く渡しなよ」
 陰から二人の声が亮子の耳に届く。
 黙っててよ。亮子は二人を睨み付けた。そんなに大声で言われたら比嘉先輩にまで聞こえてしまう。
 まだ雪は降っていなかったが、陽が落ちればいつ降ってもおかしくない気配だった。雪が降る前にはいつも土と炭酸の匂いを感じる。道の端に溜まった落ち葉が湿気を帯びてぬらりと光っていた。
「ああっ」
 不意に強く冷たい風が坂の上から吹き下ろし、亮子の手から手紙を奪い取った。風に乗った青い封筒はクルクルと回りながら、マンションの三階近くまで上がっていく。
 顔を空へ向けたまま、亮子は目の端でチラリと比嘉を見た。先輩たちも一瞬足を止め、きょとんとした顔で宙を舞う封筒を見ている。
 やがて風の勢いが弱まったのか、封筒はフラフラと左右に揺れながら、地面に向かって降りてきた。ちょうど四人の真ん中にすうっと滑り込む。
 比嘉が右手でひょいと空中の封筒を掴もうとすると、封筒は比嘉の手から逃れるように向きを変えた。指先で弾かれた封筒はそのまま勢いよく落ちていく。今にも地面に触れようとしたその瞬間、素早く現れた比嘉の左手が、封筒を下からすくい上げるようにしてしっかりと掴んだ。
「おお。ナイスキャッチ」
 隣の男子がパンと比嘉の背中を叩いた。
 軽く前につんのめりそうになりながら、比嘉は左手に持った封筒に目をやったあと、亮子に顔を向けた。
「あ、あの」
 亮子はしどろもどろになった。すぐ目の前にあの静かな瞳があるのだ。もはや動悸が速くなるどころではない。心臓の鼓動に合わせて全身がドクドクと震え、亮子自身が心臓そのものになったような気がした。こんなに寒いのに、背中にびっしょりと汗を掻いている。
 比嘉がふっと笑みを浮かべた。
「はい、これ」
 そう言って封筒を差し出す。
「あ」
 亮子は差し出された青い封筒に両手を伸ばし、軽く頭を下げた。封筒を渡し終えた比嘉は、ほかの三人と一緒にそのまま亮子の横を通りすぎていく。
 男子の一人が坂の上を指差して何かを言うと、比嘉以外の二人が大笑いした。
「ちょっと亮子、渡しなさいって」
 塀の影から声が聞こえる。
「ほら、早く!」
 亮子はくるりと体の向きを変えた。
「あの」
 掠れた声しか出ない。
「あの、比嘉先輩!」
 男子たちはすっと足を止めてこちらを見た。比嘉が首を傾げながら、半歩だけ足をこちらへ戻す。
「あの、これを」
 そう言って亮子は両手で持った封筒をすっと胸の前へ持ち上げた。

 比嘉がもう半歩、亮子に近づく。何かを言おうとしたのか、比嘉が息をすっと吸い込むのが亮子にもわかった。
 いきなり、さっきと同じ強く冷たい風が坂の上から吹き下ろし、亮子が手にした封筒がパタパタと繰り返し音を立てた。風に背を強く押された比嘉の足がもつれて、さらに半歩、亮子へ近づく。もうほとんど体が触れそうなほどまで二人の距離が縮んだ。封筒の先が比嘉の胸に微かに当たる。
 亮子は慌てて弾けるように一歩後ろへ下がった。風で冷やされているのに、顔の火照りはいっこうに冷めることがない。
「あの、これ。これ、ありがとうございました」
 封筒を見せながら亮子が礼を言ってぺこりと頭を下げると、比嘉は一瞬戸惑った表情になったあと、その場で小さく片手を上げてにっこりと笑った。
 それは、これまで亮子が見たことのない笑顔だった。ああ、先輩ってこんなふうに笑うこともあるんだ。封筒を両手に持ったまま、亮子はちょっぴり得をしたような気がした。

「ふわああっ」
 四人が境内への階段を上り始めるのを待ってから、亮子は大きな溜息をついた。
 茂禄子と里桜が塀の陰から飛び出してくる。
「亮子?」
「何で渡さなかったの?」
「風が吹いて封筒がパタパタしたから」
 そう言って亮子は二人に封筒を振ってみせた。パタパタと音が鳴る。
「ええっ? どういうこと?」
「ちょっと意味がわかんないよ」
「だって、二回も吹いたから」
 亮子はもう一度溜息をついた。今度は小さな溜息だった。
 そのまましばらく坂の上を静かに見ていたが、やがてポケットから手袋を取り出し、封筒を左右の手で交互に持ち替えながらゆっくり嵌めると、空になったポケットに封筒をそっとしまった。

 

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