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ヨークシャーテリアじゃない

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 遠くの空からゆっくりと夜が近づいていた。夜は街外れで一度止まってから、僅かに速度を上げて街の中へ入って来た。昼と夜との境目が通り過ぎると、翌朝、昼の粒子が闇の粒を追い払うまでは、しばらく夜が留まることになる。
 丸古商店の前に置かれたベンチに腰をかけた有音は、スマホで友だちとのやりとりに夢中になっていたせいで、その境目が通りすぎたことにもまるで気がついていなかった。
 ふと顔を上げるとあたりはもう夜になっていた。
—— どうしよう夜になってる ——
 こんなときでもまずはメッセージを打とうとするのだから、依存症だなと有音は自分でも思う。
—— えーこっちはまだ ——
—— たぶんこっちもいま夜になったと思う 見てなかったけど ——
—— ヤバいじゃん 早く帰り ——
—— りょ ——
 夜と共にやって来た人たちが、不思議そうな表情を浮かべて有音の顔をチラチラと見ていた。夜の側の人たちにとってみれば、いつまでも昼の側の人間がいると困るのだろう。
 有音はバッグから財布を取りだした。
 昼の側のバスはとっくに終わっているから、もしも家までバスに乗りたければ、夜の側のバスに乗るしかない。
「ああ、よかった」
 有音は安堵の息を漏らした。念のために財布に入れてある夜の側のバスチケットがまだ何枚か残っている。
 夜の側のバスも昼の側と同じ道を走るから、しばらく待ってバスが来れば乗り換えなしで帰れる筈だ。有音はバスがやって来る方角に目を向けた。
 ちょうど一人の男性がフラフラと有音に近づいてくるところだった。
「ヨークシャーテリアじゃないの?」
 男性は有音にそう言うと、悲しそうに腕を組んだ。夜の側の人なのだろう。洗いざらしのジーンズに黄色い綿のジャケット。そしてテンガロンハット。若々しい格好はしているものの、その服も表情も体の動かし方もどこかくたびれていて、見た目よりは遥かに年配なのだろうと思わせた。男性の周囲には焼き鳥の香りが漂っている。
「ヨークシャーテリアじゃないんだね?」
 男性は念を押すようにもう一度尋ねた。
「はい」
 有音は戸惑いながらもはっきりと答えた。夜の側の人たちの挨拶はよく知らなかった。
「あれ? 昼の側の人なの?」
 こくりと有音が頷くと、男性の目が丸くなった。
「だったらこれをあげよう」
 男性は組んでいた腕を解くと、ジャケットのポケットから数枚の紙を取り出し、その手を有音に伸ばした。ガサと微かな音を立てて紙が有音の手に渡る。
 足つぼマッサージの初回割引券と、星のマークが描かれた名刺サイズの白いカード、それに一枚の写真だった。
「それはね、ボクが若いときの写真ね」
 テンガロンハットを被って腰に両手を当てた若い男性の背景には、第三十三回大会と書かれた横断幕が掲げられていた。明らかに夜に撮られた写真なのに、写っているものはすべてはっきりと見て取ることができる。
「その写真はね、どんなふうに使ってもいいから」
「ありがとうございます」有音は静かに頭を下げ、ほかの紙と一緒にした写真をバッグの中へ丁寧にしまった。
「本当にヨークシャーテリアじゃない?」
 男性が首を傾げると、また焼き鳥の香りがふんわりと漂った。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないよね。でもほら、万が一ってことがあるからね」男性は万が一と声に出すところで、指を一本立てて一を示した。ああ、万が一の一は、数の一なんだっけと有音は今さらそう思う。
 ピン。スマホが音を立てた。
—— 家? ——
—— まだ ——
—— 外? ——
—— そ ——
—— なにして? ——
—— 夜の側の人に写真を貰った ——
—— 嘘 それマジヤバじゃん ウケる ——
 気配を感じて顔を上げると男性の隣にもう二人、男女が立っている。
「ヨークシャーテリアじゃないの?」女性が尋ねた。
「それが、違うんだってさ」最初の男性が有音の代わりに答える。
「昼の側の人なんだよ」
「へえ」
 女性が素っ頓狂な声を上げた。
「それじゃあ、これをあげましょう」
 女性はそう言って数枚の写真を姉に手渡した。さっきの写真と同じように、若い女性の背景に第三十三回大会と書かれた横断幕がある。
「それ、私の若いときの写真なの。好きに使っていいからね」
 有音は黙ったまま頷いた。そうして、そっと遠くへ視線をやる。
 バスはまだ来ない。来るのかどうかもわからない。
「ああ」もう一人の男性が、空を見上げて大きな声を出した。
 釣られて有音も空を見る。薄墨を流し込んだ空には銀色に光る満月が浮かんでいた。
「あれって、もしかして」
「そう、満月。昼の側の人はめったに見ることがないんでしょ」
「はい」
 有音は首を上げたまま、ぼんやりと月を見つめる。月から降り注ぐ銀色の光は、有音が隠しているいくつかの秘密を剥き出しにするようで、なんだか怖かった。

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