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世界のおとぎ話 「とてつもない物語」

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 その日は、朝早くからブランドン波止場の突堤で一人の男が釣りをしていました。カリシヤで一番たくさん魚が捕れるという、あの波止場です。
 男はそれはそれはとても貧しい格好をしていて、レインポンチョには空の色が移って青くなっている上につぎはぎだらけですし、ウロ革の靴には大きな穴が空いていました。持ち物も少なく、釣り竿は一本しか持っていませんし、釣った魚を入れるための魚籠だってとても小さく古いものでした。そのほかに男の持っているものといえば、色のあせたフェルトの帽子にささった一本の白い鷺の羽だけでした。この羽は詩人が身につけるものです。男は詩人だったのです。
 詩人の男は小さな木のベンチに座ったまま何度も溜息をついては、風も波もなくピクリとも動かない浮子をぼんやりと見つめているだけでした。
 ブランドンの波止場で魚が釣れなければ、国中どこへ行っても釣れっこありません。そのうちに詩人は何かを諦めたように釣り竿を傍らに置くと、片方の手を胸に当て、遥か彼方の水平線に向かって呟き始めました。

 風よ風よ風よ
 波に円を描く風よ
 お前の渡らない海は 
 どこまでも広がる一枚の鏡
 空となって雲を浮かべるだけ
 風よ風よ風よ
 浮子に変化を与える風よ
 鏡よりも硬いこの私の心を
 吸い込んで海に吹き流しておくれ
 動かぬ世界を動かしておくれ

 そこへ一人の商人がやって来ました。商人は波止場の真ん中にとめた馬車からゆっくりと降り、大股で突堤の先へ向かって歩き始めました。詩人とは反対に、たいそう立派な身なりをしていて、どれくらい立派かというと、ラシャに金糸で刺繍を施した布であつらえた上着を羽織り、ピカピカに磨き上げたモカシン革の靴を履いて、紫色の帽子には何本ものクジャクの羽が刺さっているほどだったのです。商人が歩くたびに、いくつもの腕輪がぶつかってカチャカチャと音を立てていました。
「お前は何者だ。ここで何をしているのだ」
 商人はしばらく詩人の様子を伺ってから、ようやく尋ねました。
「私は詩人です。ここで釣りをしています、旦那さま」
 詩人は海を見つめたまま答えました。わざわざ見なくても、商人の様子は手に取るようにわかったからです。
 詩人の答えを聞いた商人は大きくかぶりを振って言いました。
「釣りをしていることは見ればわかる。わしが聞いているのは、どうしてお前がここで釣りをしているのかだ」
「魚を釣って食べるためです」
 それを聞いて商人はとても驚いた顔つきになりました。
「魚は漁師から買えばよいではないか。お前は詩人なのだろう」
 商人はそう言うと長く伸びたヒゲの先をピンと指先で弾きました。
「買うだけの蓄えがないのです、旦那さま」
 詩人はそう言って、今度はやっと商人へ顔を向けました。
「蓄えがなければ魚を買うことはできません」
「そうか。お前は蓄えを失ったのだな」
 商人はまるで自分が商売に失敗したかのような、悲しそうな表情を浮かべました。
「いいえ、そうではありません」
 詩人は静かに首を左右に振ると、自分が生まれてからこれまでに起きたことや出会った人、つまり彼の人生について事細かに語りました。それはとてつもない話でした。あまりにもとてつもない話を事細かに語ったので、話が終わるころにはもうすっかり太陽が頭の上にまで登っていました。
「なるほど、そういうことだったのか」
 詩人の話を聞き終わった商人は、心から感心したように独り言を繰り返しました。
「世の中には不思議なことがあるものだな」
 商人の言葉に詩人もそっと頷きました。
「それにしても、お前の人生は、わしの人生とはずいぶん違う」
「そうでしょうか。誰の人生も似たようなものかもしれませんよ」
 詩人がそう言うと、商人はまた大きくかぶりを振ってから、上着のポケットに手を差し入れて、金色に輝く大きな懐中時計を取り出しました。商人は、よく見えるようにと手にした懐中時計を詩人に近づけました。時計の針は四時十六分を差したままで、しばらく見つめていても時刻が変わることはありませんでした。
「止まっていますね」
 詩人がそう言うと、商人は満足そうに頷きました。
「それではわしの話をしよう」
 商人は誰も座っていなかった小さな木のベンチを自分のそばへ引き寄せて、ゆっくり腰を下ろしました。そして、自分が生まれてからこれまでに起きたことや出会った人、つまり彼の人生について事細かに語りました。それもまたとてつもない話でした。あまりにもとてつもない話を細かく語ったので、話が終わるころにはもうすっかり日が傾いて静かな夜が訪れようとしていました。
 商人の話を聞いた詩人は、だからといって何かを口にすることもなく、空っぽの未来を見つめているだけでした。
「どうして感心しないのだ」
 商人は不思議そうな顔をして尋ねました。自分ほど立派でお金持ちの商人が、とてつもない話をすれば、誰だって感心すると思っていたのに、詩人がそれほど感心しなかったことが不思議でならなかったのです。
 詩人はそれには何も答えず、海に浮かんだままの浮子をそっと指差しました。
 二人とも黙ったまま浮子を見つめていましたが、やっぱり風も波もなくて、浮子はピクリとも動かないままでした。あまりにも動かないので、世界の時間が止まったのではないかと思うほどでした。
 やがて、しびれを切らした商人が変身しました。みるみるうちに姿を変えて、とてつもないものになったのです。
「ほほう。これはとてつもないですね」
 あの偉そうな商人がこんなにとてつもないものになるとは思っていなかったので、詩人は少しばかり驚きました。
 とてつもないものは素早く体を丸め、詩人に向かって長い長い息を吐きつけました。その黄色く臭い息が海面に広がると、海中から一斉に魚が飛び上がり、そのまま海面に浮かびました。詩人はあわてて海へ魚籠を投げ込み、ぷかぷかと浮いている魚をすくい取ろうとしましたが、どの魚も奇妙にねじくれていたので、これは何かがおかしいと思って、すくうことをやめてしまいました。
「ぷはああ」
 とてつもないものが、再び黄色い息を吐きました。それは、あまりにもとてつもなくて、あの立派な身なりをしていた商人の姿形はもうどこにも残っていませんでした。ふと地面を見ると、商人の帽子についていたクジャクの羽が数本ばかり落ちていました。
 詩人はしばらくの間、呆れた顔をしたままとてつもないものをじっと眺めていましたが、一日中波止場にいたのに、魚籠の中がまだ空っぽだったことを思い出して、ちょっぴり悲しい気持ちになりました。
「それでも私には、漁師から魚を買うだけの蓄えはないのです」
 そう言って詩人は静かに帽子を脱ぎ、ベンチの上に乗せてから、もっととてつもないものに変身しました。
 驚いたとてつもないものは大きな口を開けて、もっととてつもないものを吸い込みました。吸い込まれたもっととてつもないものは、とてつもないものの内側からとてつもないものを吸い込みました。
 あまりにもとてつもない吸い込み合いが続いたせいで、吸い込み合いが終わるころにはもうすっかり夜も更けていました。
 こうして、とてつもないものと、もっととてつもないものが、おたがいに相手を吸い込んだせいで、やがてどちらもいなくなってしまいました。
 しんと静まりかえった夜のブランドン波止場には、あいからわずピクリとも動かない浮子と、二度と時刻を差すことのできない金色の大きな懐中時計がポツリと残されていたのでした。

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