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内々の会議

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 高層階行きへ乗り換えるために十二階でごっそり人が降りると、それまでぎゅうぎゅう詰めだったエレベーター内の気温が一気に下がったように感じた。街野が隣に立つ砂原へチラリと視線を送ると、砂原は手にしたコーヒーの紙カップをひょいと持ち上げて、ホッとしたように笑う。
 街野もギュッと硬くしていた体を少し緩め、小さく息を吐いた。だんだん人いきれが辛い季節になってきた。
 鈍い色をしたアルミ製のドアに映し出される乗員の歪んだ像が、奥の壁に背をつけた街野からは全員ぶん見える。七人とも営業総務のメンバーで、ちょうど昼休みが終わって居室に戻るところだった。
 ギイ。ふいにエレベーターの天井から、何かが擦れるような音が聞こえた。ガリッ。七人を乗せたかごが軽く揺れて、壁に当たったような音が鳴る。
「おあっ」誰かが悲鳴とも驚きともわからない声を上げ、その瞬間、ガクンと激しい振動が起こってエレベータが止まった。
 バツッ。照明が消える。
「うわああっ」
「えっ? 何? 何?」
 照明だけでなく制御盤のボタンの光も非常ランプもすべて消えて、エレベーター内は完全な暗闇に包まれた。
「ちょっと待って!!」
「いやだ、こわい。助けて!」
 次々に上がるみんなの叫び声が、昇降路の底までこだまを繰り返しながら響いていく。
「ヤバいよ、これはヤバいよ」
「地震? 何? 放送は?」
 しばらくの間、誰もが口々に言葉を発していたが、やがて何かに音を吸われたかのように全員が黙り込み、エレベーター内がしんと静まりかえった。
 街野は耳を澄ました。天井からはカタカタと振動音が続いている。怖かった。このままかごが落下するんじゃないのか。そう考えると膝がガクガクと震え始める。
 ポッ。
 不意に小さな明かりが灯って目の前が明るくなった。課長の宅羽が携帯のライトをつけたのだ。
「ああ」誰ともなく安堵の声が漏れる。完全な暗闇の中では、この小さな明かりでさえ、眩しく感じられるほどだった。
「明るい」街野がポツリと言う。置かれた状況は何も変わらないのに、なぜか僅かな光があるだけで安心できるから不思議だ。
「全員、ケガはない?」宅羽は光をぐるりと回し、エレベーターの中を一周させた。
「大丈夫です」
 みんなも携帯のランプをつけた。七台あるとかなり明るくなる。
「何があったんでしょう」
「私の携帯、電波が通じなくてわからないの」
 宅羽は携帯をゆらゆらと振って見せた。下からの光で照らし出された宅羽の顔はマスカラの影がいつもとは逆方向へ異様に長く伸びて、まるで別人に見える。
「僕もダメです」
「私もです。圏外」砂原が首を振る。
 エレベーターの中はどうしても携帯の電波が届きにくいものだが、それにしても、これだけ情報が手軽に飛び交う世の中で、自分の置かれた状況がわからない事態は珍しい。
「これ押しますよ」伊福が制御盤の非常ボタンを指さし、そのままぐっと押し込んだ。ボタンの説明にはコントロールセンターと通話ができますと書かれているが、何も起こらない。「もう一回押してみて」
 誰かにそう言われて、伊福は再びボタンを押すが、やはりどこともつながらない。
「なんだよ」伊福は元柔道部らしい掠れ気味の低音で文句を言い、太い指で何度も繰り返しボタンを押し込んだが、何の反応も起こらないままだった。
 沈黙だけが広がっていく。さきほどの振動音も聞こえない。まったく動かなくなったエレベーターは、何一つ物音を立てようとしなかった。
「とにかく救助を待つしかないだろう」
 そう言って床にどさりと腰を下ろしたのは班長の能雅で、空調が切れて暑くなったのか上着を脱いでいた。
「いつごろになるでしょう?」街野も腰を下ろしながら聞く。
「それは俺も知りたい」
 再び全員が黙り込んだ。ここで座って待つよりほかには何もやることがなかった。
「あのう、酸素は?」
 不意に青谷凪が尋ねた。
「え?」
「ほら、よく映画であるじゃないですか。エレベーターに閉じ込められて」
「はははは、青谷凪さん、それは映画の見過ぎだよ。エレベータは密閉されていないから」
 渡師が笑った。
「そうなの?」砂原が聞く。
「そうです。だから空気は大丈夫です」
「ああ、よかった」
 青谷凪が大きく息を吐いた。どうやら今まで呼吸を節約していたらしい。
「空気は大丈夫だけど、電池は勿体ないから切っておきましょう」砂原がそう言って携帯のランプを消すと、みんなも同じようにランプを消した。
 街野は目を閉じた。開けても閉じても暗さは変わらない。真っ暗な空間の中で、自分とみんなの呼吸だけが聞こえてくる。手を伸ばせばすぐそばにいるようにも感じるし、遠くにいるような気もする。五感がしだいに溶け合って、自分が寝ているのか目覚めているのかさえわからなくなってくる。
「エレベーターのロープって切れたりしませんよね」暗闇の中に青谷凪の声が響いた。
「いや、どうかな。ロープが切れてかごが落ちたって話は海外のニュースで見たことがあるような気がするし」
「ちょっと、渡師さん、やめてくださいって」街野が悲鳴にも近い高い声を出すと、渡師がぷっと噴き出す音が聞こえた。
「鋼鉄を何重にも捻っているから、切れたりしないよ。心配しなくてもいい」
「だったら脅かさないでください」青谷凪は泣き声になっている。
 それっきり誰もが口を噤み、しばらく沈黙の時が流れた。
 ここから出られたら何をしよう。行ってみたい国と食べたい料理が街野の頭に次々と浮かぶ。いつかやろうじゃダメなんだ。やりたいと思ったときにやらないと、できなくなってしまうんだ。遠くでカンカンと金属的な音が繰り返し鳴っているような気もするが、それが現実の音なのか夢の世界のできごとなのか街野にはわからなかった。
 暗闇と無音。どんどん体が沈んでいくようだった。深く深く深く。どこまでも沈んでいく。
 ガクッ。急に頭が落ちて目が覚めた。うっかり眠ってしまっていたようだ。

「それじゃ」宅羽が急に口調をあらためた。
 その声をきっかけに、みんなが大きな息を吐く音が周りから聞こえてきた。どうやら全員眠っていたらしい。
「十三時半になったから、班会を始めましょう」
「えっ、ここでですか?」渡師が驚いた声を出す。
「何? できるでしょ?」
 暗闇の中でも、宅羽が厳しい顔をしているのが声でわかる。
「だけど、この状況ですよ」
「今日の十三時半から班会があるってことはみんなもわかっていたでしょ」
「それはそうですけど」
 街野が躊躇いがちに答える。普段から時間に厳しい上司だが、いくら予定の時間になったからといって、まさかこの状況で会議を始めようと言い出すとは思いもしなかった。
「予定は予定ですから。さあ、始めましょう」パチンという平べったい音が聞こえた。宅羽が手を叩いたらしい。
「でも報告書だってまだ」
「そんなのなくても平気よ。ちょうど全員ここに揃っているんだし。ほら能雅くん」
「あ、はい。それじゃ班会を始めます。お疲れさまです」
 能雅は宅羽に抵抗することもなく、素直に進行を始めた。今週は能雅が班長なのだ。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
 お互いに顔は見えないまま、声のする方向へなんとなく頭を下げる。
「じゃあ、まずは有給消化の件です」
「あれ? うちの班は消化できてるはずだろ?」渡師が怪訝な声を出した。何があっても休みはきっちり取る男なのだ。
 キュイッ。突然、エレベーターの扉付近から奇妙な音が鳴って、一瞬、全員が黙り込んだ。じっと息を潜めて耳を澄ますが、もうそれ以上は何も聞こえなかった。
「えーっと、それじゃ、続けますね」しばらく黙ってから能雅が口を開いた。
「有給の件、総務は大丈夫なんです。でも営業が半分くらい取っていないので、取らせて欲しいって人事から通達が来ていて」
「ああ、そういうことか」
「これって青谷凪さんに任せてもいい? メールを回してくれたらいいので」
「はい、大丈夫です」見えない班長に向かって青谷凪は頷いた。
「それと九階の電灯です。これは伊福君だったよね」
「その件でちょっと確認なんですけど、九階ってフロアの半分は営業ですけど、半分は経営企画じゃないですか」伊福の掠れ声が不満げに響いた。
「そうだな」
「ああ、そうかも」
 キュキュキュ。再びエレベーターの扉付近から奇妙な音が聞こえたが、もう誰も気にならないようだった。
「フロアを半分ずつ使っているから、その電灯ってうちが交換するべきなのか企画総務が交換するべきなのかで迷っていて」
「ああ、確かになあ」
「フロアの大きさって同じなんでしたっけ?」砂原が聞いた。
「それが、同じなんですよ」
「だったら椅子の数で決めましょう」
 宅羽がきっぱりと言った。
「椅子の数ですか?」
「そう、それぞれの部署の椅子の数を数えて、多いほうの総務が電灯の交換をすればいいでしょ」
「それはいいですね、わかりやすい」
 ガッガッガッ。再び扉から金属音が聞こえてくる。
「だとしたら会議室はどうしましょう?」
「会議室?」
「ああ、会議室の椅子か。あそこは共用だもんな」
 能雅がぼんやりと独り言のように言う。
「そうねえ、だったら会議室の椅子は半分ずつってことでいいんじゃない?」
 暗闇の中で軽く拍手が起こった。
「さすが課長。一発で解決ですよ」伊福の声が明るくなる。
「あと、丸古さんの送別会の会費、まだ出していない人は早めに僕のところへ持ってきてください。いちおう今週いっぱいでお願いします」
「すみません、私まだでした」砂原が謝る。
「それって、管理職と一般職で金額が違うんだっけ?」聞いたのは渡師だ。
 ギリッ。擦れるような音が鳴り、暗闇の中にいきなり一筋の光が差し込んだ。エレベーターの扉に僅かな隙間ができ、そこから外の光が入っている。
「うわっ」ちょうど扉の正面に座っていた街野は、急に飛び込んできた眩しい光に思わず目を細めた。ずっと暗いところにいたせいか、光が目に痛い。
「大丈夫ですか?」扉の向こうから大きな声が聞こえた。続いてガチャガチャと金属の音が鳴り、扉の隙間から板状のものが飛び出す。
「管理職が七千円で、一般職が三千円です」
「どなたかいらっしゃいますか?」
 ギギギギギ。重い音とともに扉の隙間がしだいに広がっていく。
「ごめん能雅、聞き取れなかった。いくらだって?」渡師が聞き直す。
「だから管理職が」
「救助に来ました!」
「ああ、もううるさいな、聞き取れないでしょ!」渡師は扉に向かって怒鳴った。

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