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よい木はなかなか見つからない

illustrated by スミタ2023 @good_god_gold

 朝からずっと雑木林の中を探し回っているのだが、なかなか手ごろな木は見つからなかった。気がつけばかなり林の奥まで進んでいて、周りにいた人の姿はいつしか消えてしまっていたが、それでも木寺は足を止めなかった。ベージュのジャングルハットを深く被り直し、どこまでも奥へ奥へと進んでいく。進めば進むほど木々は密集し、あたりはしだいに薄暗くなった。
 しばらく歩いていると正面に少し開けた場所が現れた。薄暗い林の中にそこだけぽっかり穴が空いたように陽光が差し込んでいた。ちょうど真ん中に一本の古い木が立っている。
 枝ぶりも太さもちょうど良さそうだ。木寺はバックパックから出した測定器で木の高さを確認し、メジャーで幹の周囲を測った。そのまま何やら電卓で計算を始める。
「課長、ここでしたか」
 ふいに声がして振り返ると部下の三葉が同じく部下の能雅と並んで木を見上げていた。二人ともだらしなく口が開いている。
「これはけっこういいですね」
 能雅が感嘆の声を上げた。
「ああ、使えるかもしれない」
 木寺も頷く。計算の結果は理想に近かった。あとは細かいところを確認するだけだ。
「筒をくれ」
 そう言って片手を出すと三葉が細い金属製のパイプを木寺に差し出した。長さ二十センチほどのパイプは鉛色で、片側は注射針の先端に似た尖り方をしていた。木寺は木の幹に片手を当て、もう一方の手でパイプを木に勢いよく突き立てる。
 やがてパイプの端から黄色い液体がじんわりと出てきた。指先につけてじっくりと観察する。色も透明度も悪くなかった。
「なかなか良さそうだな。じゃあケミカルチェックだ」
 能雅が腰にぶら下げている白いポーチから試薬の入った容器を取り出した。数滴の樹液を半透明の小さな容器に入れて軽く振る。これで有害な成分が含まれていないかどうかを確認するのだ。
「ああっ」
 いきなり三葉が声を上げた。見ると悲痛な顔をして頭上高くを指差している。
「どうした?」
「蝉が」
 指差す方向に目をやると数匹の蝉がいつのまにか幹にとまっている。
「これはまずいぞ」
 木寺は蝉を退かそうとジャングルハットを手に持って振り回したが、蝉はかなり高いところにとまっていて一向に動こうとはしなかった。
「えいっ」
 足で木を強く蹴って振動を与えた。枝がわずかに揺れたように見えたが蝉はあいかわらず同じ場所に留まっている。キョロキョロと周りを見回した木寺は、拳ほどの大きさの石を地面から拾い上げ、蝉に向かって投げようとした。
 シュアシュアシュアシュアー。
 蝉が鳴き始めた。
「あああ、遅かったか」
 木寺はがっくりと肩を落とした。鳴かれたら終わりなのだ。どれほど条件に合っている木でも、さすがに鳴いている蝉を追い払ってまで手に入れることはできない。
 手にしていた石がぼとりと地面に落ちて転がった。
「残念です」
 三葉も大きな溜息をつく。
「もう少し早く確保すればよかったな」
 あと一歩だった。木寺は苦笑しながら首を振った。三人はあたりに広げていた道具を順番に拾い上げてバックパックへ片づけていく。
 少しでもよさそうな木があれば蝉がやってくるのは当たり前のことだ。すべてが完璧な上に、蝉もいない木などそう簡単に見つかるはずはない。
「そういえば、ここへ来る途中に」
 天豊がおずおずと切り出した。
「これよりは落ちますが、それなりにいい木を見かけました」
 木寺はぐっと顎に力を入れて天豊を見た。
「念のために、いちおう見ておこうか」
 案内されるまま来た道を戻り、途中で細い横道にそれた。もはや道と呼べるものではなく単なる人の通った痕跡でしかない。
「あれです」
 木寺の目がキュッと細くなる。なるほど見事な木だ。高さも枝の広がりかたも問題ないし、一枚一枚の葉がしっかりしている。近づいて幹に触れると適度に乾燥した樹皮はゴツゴツとしていて引っかかりがよかった。
「いや、これはさっきの木よりもいいんじゃないか」
 木寺は振り返って二人に大きく頷く。
「樹液は計った?」
「まだです」
 天豊が金属の筒を幹に突き立て、出てきた樹液を試薬の容器に入れる。木寺は指先で樹液を掬い取るようにして舐めた。ほんのりと甘みがある。
「これはかなりいいぞ」
 興奮気味の口調になる。どうして蝉がこの木にいないのかが不思議だ。
「ケミカルも問題ありません」
 天豊も声が昂っている。
 どうやら完璧な木を見つけたようだった。あとは蝉が来る前に確保すればいい。すでに三葉が木の周囲にポールを立ててロープを張り始めていた。
「申しわけありませえええんッ!」
 突然、背後から大きな声が林の中に響き渡った。ガサガサと音を立てながら灰色の背広を着た男性が草むらの中から現れた。
「あれ?」
 木寺の目が丸くなった。
「井塚さん? しのぶ産業の?」
「はい。申しわけありません。井塚です」
 井塚はそう言って深く頭を下げた。よほど急いで来たのだろう。髪の毛には小枝や葉っぱが絡みついている。
「こんにちは」
 戸惑いながら三葉と能雅も頭を下げる。いつもは先方の会議室で会っているクライアントである。まさか林の中で出会うとは思ってもいない。
「すみません。本当にすみません。もしもよければこの木を私どもにお譲りいただけないでしょうか」
「えっ?」
 虚を突かれて木寺の口がぽっかり空いた。
「どうしてですか、私たちが先に見つけたんですよ。いくらクライアントだからって、それとこれとは別じゃないですか」
 三葉が口を尖らせる。
「それはもう、誠にすみません」
 井塚はまた頭を下げた。
「こちらの都合でたいへん申しわけないのですが、弊社の会長は任期が残り少ないものですから、かなり焦っておりまして」
「うちの社長もですよ」
 天豊がポツリと言う。
「たいへん失礼ですがどれくらいで?」
「あと半期ほどです」
「ああっ、それは申しわけない。でしたら、たとえば一度お譲りいただいて、弊社の会長が任期を終えたあと御社へお返しする形はどうでしょう? 問題ないのでは?」
 井塚はそう言ってこれで決まりというようにパンと手を叩いた。
 なるほど確かに一理ある。木寺は小さく何度か頷いた。
「あのう、もしお断りしたら今後の取引に影響しますか?」
 三葉が冷ややかな目で井塚を見た。どうやら抵抗するつもりらしい。せっかく見つけた木を譲りたくないのだろう。
「あまり無理を仰ると下請法違反になりますよ」
「ごめんなさい。それはわかっています。わかっているんです。わかっているんですが」
 井塚が膝をがくりと折って地面につけた。
「そこをなんとかお譲りいただきたい。この通りです」
 頭を地面に擦りつけようとする。
「うわあっ、ちょっと井塚さん、やめてください。やめてくださいって」
 あわてて木寺が手を大きく振り回した。しのぶ産業の井塚と言えば、あらゆる問題をひたすら謝罪するだけで解決してしまう凄腕だ。いくら抵抗したところで、きっと丸め込まれてしまうに違いない。
「わかりました。この木はお譲りしましょう」
「えっ?」
「え?」
 二人の部下と井塚が同時に声を上げた。
「いいんですか?」
 三葉が小声で尋ねる。
「いいんだ。ここは一つ貸しを作っておこう」
「ああ、申しわけございません。本当にすみません」
 そう言いながら井塚はすっくと立ち上がり、膝についた土を手でパンパンと払い落とし始めた。
「勝手を言ってごめんなさい。深く詫び申しあげます。恐縮です」
 声だけを耳にすると心から詫びているような口調に聞こえるが、スマートフォンにメールを打ち込む顔はやたらと嬉しそうだった。さすがはプロである。木寺は感心した。
「どうするんですか?」
 天豊が悔しそうな顔で聞く。
「しかたがないだろう。別の木を探そう」
「わかりました」
 三人はその場を離れ再び林の中を歩き始めた。これぞと思う木があっても、高さが足りなかったり、枝の広がりかたがいまいちだったり、幹が硬すぎたり、あるいは樹液の成分に問題があってなかなか良いものは見つからない。
 シュアシュアシュアシュアー。
 何よりも、条件に合う木にはたいてい蝉がしっかりとつかまって鳴いていた。
 疲れてぼんやり歩いているうちに、いつのまにかずいぶんと林の奥深くにまで来てしまっていた。もうほとんど山裾で、すぐ向こうの崖下からは小川の潺が聞こえていた。林の中を生温い風が抜けると、ムッとする苔の匂いが鼻を刺激する。このあたりはどうやらかなり湿地になっているようだ。
 木寺は膝に手をついてしばらく足元を見つめたあと、ゆっくり顔を正面に向けた。
 一本の木が目に入る。さっき譲ったものよりはいくぶん若いが充分に立派な木だ。薄暗い林の中でまるでその木だけがほんのりと光を放っているかのようだった。
「これだ」
 思わず声を上げた。
「みんな、こっちだ」
 測定器で高さや外周を測っているうちに、三葉と能雅も駆けつけた。樹液の成分をしらべている間に急いでロープで木を囲う。
 しばらくすると数匹の蝉が飛んできたが、ロープで囲われていることに気づいて、木には止まらず去って行った。
「やったぞ」
 三人はホッとした顔で地面に座り込んだ。水筒の生温い水がやけに旨かった。

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