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食べ物を投げないでください

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 霜で薄らと白く染まった公園の隅に集められた男女には、それぞれ小さくて丸い透明の密閉容器が配られた。誰もがボロボロの服を重ねるようにして着ているものの、朝の冷え込みのせいか、みんなどことなく動きが鈍い上に顔色が悪いように見える。あきらかにこの公園で暮らしているホームレスたちだった。受け取った容器を手に、互いに不思議そうな顔を見合わせている。
「あれを見てください」
 オレンジ色のストライプシャツを着た若い男がマイクを片手に、公園の奥にある古い石造りの建物を指差した。みんなも釣られたようにぼんやりとそちらに視線をやる。
「あの美術館にはびっくりするほど高い値段のつく絵がたくさんあるんですよ。それでは行きましょう」
 男の仲間はみんなオレンジ色のストライプシャツを着ている。彼らはホームレスを取り囲むようにして美術館へ足を進め始めた。

「さあ、みなさん」
 先を進んでいたオレンジたちが足を止め、体ごと振り返る。
「みなさんには、その容器の中のマッシュポテトやトマトスープを、ここに飾られている絵に向かって投げ……あれ? ちょっと、ちょっとそこのあなた」
 オレンジストライプの一人が男性を指差した。
「ん? 俺?」
「そうです。あなた、どうして容器が空なんですか?」
「ああ、これ? まあまあうまかったよ、な」
「うん、ポテトだろ? うまかった」
 彼の周りで数人が頷いた。口元を拭う者もいる。
「トマトスープもおいしかったよ。ちょっと塩気は足りなかったけど」
 別の女性も空の容器を見せた。
「いったい何をしているんですか!」
 オレンジのストライプシャツを着た年配の女性がいきなりマイクを掴んで叫んだ。
「それは、あなたたちが食べていいものじゃありません!」
 金切り声を上げる。
「え?」
「だってくれたじゃん」
「なあ」
「いいですか。それは飢えている人を助けるためのものなんです」
 彼女の言葉にホームレスたちは納得したように大きく頷いた。
「やっぱそうだよな? いやあ俺、一昨日からほとんど何も食べていなかったから助かったよ」
「私もです。本当にありがとう」
「ふざけないでください! だからさっきの料理は食べるためじゃなく、絵に投げつけてもらうために渡したんですってば!」
 再び女性の声が荒くなる。
 またしても、みんなは不思議そうな顔を互いに見合わせた。彼女の言っている言葉の意味がどうもよくわからない。
「そうやって飢えている人を助けるんですッ!」 
 みんなの口がぽかんと空いたままになる。
「ポテトを絵に投げつける?」
「トマトスープも?」
「せっかく目の前にあるのに、食わずに?」
 ホームレスたちの中に困惑が広がっていく。
 ストライプシャツを着た年配の男性が、そっと女性に近づき静かにマイクを受け取った。
「みなさん食べてしまわれたようですから、ともかく、もう一度、中身の入っている容器を受け取って下さい」
 どうやら彼がオレンジたちのリーダーらしい。

「さあ」
「どうぞ」
「こんどは食べないで」
 密閉容器を手にホームレスたちは、オレンジ群に先導され美術館の中へ次々に入っていく。エントランスホールの中程、チケット売り場の向こう側に、高い天井から巨大な一枚の絵画が吊り下げられていた。距離があるのでどんな画材を使っているのかまではわからないが、遠目に見ても陰気な絵だった。赤黒い雲の渦巻く空の下では中世の甲冑に身を固めた騎士たちが陰鬱な表情で何かから逃げている。戦争なのか災害なのか、ともかく目を覆いたくなる表情だった。まるで絵画自体が陰気を纏って、天井から床へその気鬱を流し込んでいるようだ。
「あれです」
 オレンジのリーダーがその巨大な絵画を指差した。
「あれに投げつけて欲しいのです」
 ホームレスたちは戸惑いながらお互いの動きを見合っていたが、やがて一人が意を決したようにトマトスープを投げつけた。
 ビチャン。
 派手な音とともに、絵に赤い染みがついた。
「あのう、お客様?」
 それまで端で見ていた美術館の職員がそっと近づいてきた。
「何をなさっているんですか?」
「うるさいわね。そこにいたらジャマでしょ」
 オレンジの女性が職員を腕で押し除ける。
「まさか絵に食べ物を投げているんですか? 警察を呼びますよ!」
「呼びたければ、呼べばいいでしょ。さあ、ほらみんな、早く投げて」
再びトマトスープが投げられ、絵画にべったり張りつく。とたんに絵画の中の騎士たちがその染みに集まり、やがて絵の向こう側からスープを吸い始めた。あっというまに染みが消えた。絵の中で食べているのだ。
「さあ、どんどん投げて」
「それじゃ、これはどうだ」
 別のホームレスがマッシュポテトをボール状に丸めて、絵に向かって勢いよく投げた。ポテトは絵画の表面を素通りして、そのままするりと絵の中へ入っていった。絵の中で見事にポテトをキャッチした騎士が剣を掲げて感謝の意を示す。ボールを投げた男も片手の親指をぐいと立てて、騎士にエールを送った。
「ようし俺も」
「だったら私も」
「お願いです。やめてください。絵画に食べ物を投げないで下さい。作品に食べ物を投げないで下さいッ!」
 職員がいくら叫んでも、もう誰も聞こうとはしない。
 ホームレスたちは次々にマッシュポテトとトマトスープを絵画に向かって投げ始めた。投げ終わると、オレンジから新たな容器を受け取り、再び投げる。
 ふと気づけば、あれほど絵の中で逃げ惑っていた騎士たちが、いつしか地面に座っていた。背景の赤黒い雲渦は変わらないが、みんなどこかホッとした顔つきで、満足そうに腹を撫でている。中には甲冑を脱いで、うとうと居眠りを始めている者もいるようだった。
「いいでしょう」
 絵画を丁寧に確認してから、オレンジのリーダーはホームレスたちに向かって嬉しそうに大きく頷いた。

「これでわかったでしょう」
 公園に戻ると例のオレンジの女性が得意そうな顔で全員を見回した。みんな車座になって地面に広げたブルーシートに座っている。
「みなさんは、飢えている人を助けたんですよ」
 そう言ってからマイクを反対側の手に持ち直した。
「どうです。気持ちがいいでしょ? ね? かわいそうな人を助けたんですから」 
 よほど気持ちがいいのだろう。頬が緩みっぱなしになっている。
「でもさ」ホームレスの一人がすっと立ち上がった。
「あれって人なのか? 絵じゃないのか?」
「そうだよ。飢えている人は絵の中じゃなくてここにいるだろ」
 別の一人も立ち上がる。
「絵より現実の私たちのほうが困ってると思います」
「何を言い出すのッ! あの絵を見たでしょう! あの表情を見たでしょう!」
「でも絵だぜ」
 女性は呆れたと言わんばかりの顔になって、激しく頭を左右に振った。
「いい? あの絵にはね、びっくりするほど高い値段がついているの。あなたたち全員で一生かかっても稼げないくらいの値段なの」
 ホームレスたちの眉間に皺が寄った。互いに目と目を合わせる。立ち上がっていた者たちも何かの力が抜けたかのように、静かにその場に座り直した。

 バリン。
 遠くでガラスの割れる音が響き、オレンジの人々もホームレスたちも一斉に音の鳴った方角を見た。美術館の窓から焔が噴き出している。
「なんだあれ」
 オレンジストライプの若者が思わず独り言ちた。
 美術館の扉を破るようにして、銀色の塊が公園の中へ飛び出してきた。
「もしかして、あれってさっきの」
 絵の中にいた中世の騎士たちだった。
 理由はわからないが公園を歩いている人たちに次々と襲いかかり、剣で切りつけている。美術館の中からも悲鳴が聞こえてくるのは、おそらく中でも同じように暴れ回っているのだろう。騎士の一人がホームレスたちに気づいたらしい。信じられないほどの速度で駆け寄ってくる。
「あ、あいつは」
 ホームレスの一人が騎士の甲冑に描かれた模様に気づいた。マッシュポテトを受け取って感謝の意を示した騎士だ。彼はその場にすっと立ち上がると、騎士に向かって片手の親指を立て、そのまま首をはねられた。
「ひいいぃぃ」
 男の首をはねた騎士はすぐに体の向きを変え、こんどはオレンジストライプの集団に襲いかかる。
「ちょっとあなた、やめなさいッ! 私たちが助けてあげ」
 例の女性の言葉はそこで終わった。
 オレンジたちもホームレスたちも蜘蛛の子を散らすように逃げ出したが、奥からやってきた騎士たちに次々に仕留められていく。
「なんだよ、なんだよ、何なんだよ」
 オレンジ色のストライプシャツを着た若者が泣きながら叫んだ。とっくに失禁してズボンはびしょびしょに濡れている。
「あれは残虐な騎士たちの恐ろしさを描いた絵画ですから」
 美術館から逃げてきた職員は顔中が血で赤く染まっている。どうやらあちらこちらを切られているようだ。それでも致命傷になっていないのは、やはりあの絵に慣れているからだろう。
「だって俺たちが食いもんをやったんだぞ。なのにその俺たちを襲うなんておかしいじゃないか。おかしいだろう」
 オレンジの若者が泣きわめく。

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