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秘密のゲーム

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 教室に戻って半袖短パンの体操着の上からジャージを着ると、さっきまでのみじめな自分の姿を少しは隠せたような気がして、伊輪はようやくホッとした。
 最後まで逆上がりができなくて、ニヤニヤ笑いを浮かべているみんなの前でずっと練習させられたことよりも、やれと言うだけでどうすれば上手くできるのかをさっぱり教えてくれない先生に腹が立ったし、そんな伊輪を指さして笑うことで街野さんの気を引こうとする三千男にはもっと腹が立った。
 体が小さくて力はないし、走るのだって遅いし、ボールを投げられたら手よりも顔で受け止める回数のほうが多いから、伊輪にとって体育の授業はいつも苦痛の時間で、朝、時間割を見て体育が入っていると、登校するふりをしたままどこか別の街へ逃げたくなったし、登校中にお腹がひどく痛くなって家に帰ったこともあった。
「はあ」伊輪は机に突っ伏して手を前に長く伸ばした。運動ができないことよりも、運動ができないことを街野さんに見られるのが辛かった。短い髪にすらりと長い手足で、男子よりも速く走る街野さんが伊輪をどう思っているかなんて考えたくもない。
「はああ」
 伊輪はもう一度大きなため息を吐いた。ともかく今日の体育は終わったのだ。
 
 四時間目は算数だから誰にも笑われずにすむし、今週は掃除当番じゃないから給食が終わればすぐ家に帰ってタロと遊べる。タロは伊輪が何をしても絶対に笑わない。真っ白で大きくて毛がフワフワのこの友だちは、いつだって伊輪の言うことを真剣な顔で聞いてくれるし、その間ずっと尻尾を優しく振ってくれるのだ。早く帰ってタロに会いたかった。
 さっきまでの体育の気分が残っているからなのか、教室の中はまだガヤガヤと騒がしかったけれど、伊輪は気にすることなく算数の教科書とノートを机に並べたあと、筆箱の中から定規を取り出した。
 片目を閉じてピンと立てた定規をじっと見つめる。それは伊輪だけの密かな遊びだった。
 どこでもいいから、まず三つのポイントを決めるところからこのゲームは始まる。たとえば黒板の下にあるチョーク置き場の端、前の椅子の背もたれから飛び出しているボルト、そして教壇の角。そうやって選んだ三つのポイントが定規の上で一直線に揃えば一点が入る。さらにその直線を伸ばしさ先が街野さんの机の上を通過すればもう一点が入る。それを三回繰り返して全部で何点入るかを競うのだ。競うと言ってもこのゲームは伊輪が一人でやっているだけだから勝ち負けはないし、点数が入ったからといって、特に何も起こったりはしない。ただそれが伊輪にとっては面白いってだけのことだ。
 一見、選んだ三つのポイントが直線上に並ばないように思えるときでも、顔の位置や角度を変えたり、つむる目を逆にしたりと、ちょっとした工夫をするときれいに並ぶことがあって、そうしたときには伊輪自身も驚き、嬉しくてつい大きな声が出てしまうこともあった。
 以前、片目で定規を見ながらあれこれ顔の位置を動かしている伊輪の姿を見て
「さっきから何してるの?」
 と、聞いてきたのは、家が近所でよく一緒に登下校している俊貫だった。
「ゲームだよ」
「定規で?」
「うん」
 俊貫は不思議そうな顔になった。俊貫の知っているゲームは文房具など使わない。
「どうやるの?」
「誰にも言わない?」
 伊輪は声を潜めた。
「言わないよ」
 一生懸命に説明したものの、どうやら俊貫はたいして面白いとは思わなかったようで、ふうんと軽く鼻を鳴らしただけで、それっきりこの秘密のゲームについて何も言わなかった。
 
 伊輪は片手に持った定規の角度を変え、顔の位置を変え、座っている椅子を左右に動かし、つむっている目を左から右へ変えた。
 残念ながら、チョーク置き場と椅子のボルトと教壇の角は、どうやっても直線上には並ばなかった。
「ちぇ、〇点か」
 黒板の上に備え付けられているスピーカーからチャイムのメロディが流れ始めると、教室のざわめきはすうっとおとなしくなって、やがてドアが開いて先生が入ってきた。誰も伊輪を笑うことのない算数の授業が始まった。
 
 給食のあとすぐに帰ろうとした伊輪が足を止めたのは、教室の後ろで数人の男子に取り囲まれている俊貫の姿が目に入ったからだった。どう見てもあまりよい雰囲気ではなくて、いつもは校門を出たあたりで合流するのだけれども、この様子だとたぶんいっしょに下校するのは難しそうだった。
 何がきっかけでそうなるのかは誰にもわからなかったけれども、ふだんはいっしょに仲良く遊んでいる男子グループの仲間たちから、突然、攻撃の対象にされる子が何人かいる。攻撃されるのはきまって伊輪や俊貫のように運動が苦手な子で、攻撃するのはもちろん三千男たちで、その立場が入れ替わることはけっしてなかった。
 不穏な雰囲気を感じ取ったのか、キャッキャと笑いながら帰り支度をしている女子のグループや、箒を持った掃除当番のみんなも、見ないふりをしながら目の端ではチラチラと教室の後ろを見ているようだった。
 三千男が何やら命令すると男子の一人が俊貫を羽交い締めにして、別の男子が無理やりに靴を片方ずつ脱がせた。
 先週、俊貫が父親に新しく買ってもらったばかりのスニーカーで、光を反射する素材でつくられたブランドのロゴマークがキラリと輝くのを
「ほら、見てよこれ」
 と、何度か伊輪も自慢されたものだった。
 俊貫のスニーカーを手にしてしばらく眺めてから、三千男は
「はん?」
 と、声にならない声を出し、そのまま俊貫のそれを窓から外へ投げ捨てた。
「あっ」
「あ」
 俊貫と同時に伊輪の口からも思わず声が出た。それまでどこかざわざわしていた教室が一気に静かになる。女子たちの顔からも笑顔が消えて、みんな黙って教室の後ろを見つめている。
 伊輪は小さく首を左右に振った。さっきまでまぶしいくらいに午後の光が差し込んでいた部屋の中がなんだか急に薄暗くなって、すべてが白黒になったような気がした。気温が下がったわけでもないのに、妙な寒気がしてブルッと背中を震わせた。
「靴下も脱がそうぜ」
「やれやれ」
 男子たちの大きな笑い声は、ここではないどこか遠くから聞こえてくるようで、伊輪のすぐ目の前で起きていることとはまるで無関係のように感じられた。
「ほら、早く脱がせろよ」
 男子に命令した三千男は、得意そうな表情を浮かべた顔の向きを変えないまま視線だけを教室の前へやった。
「さっさとやれよ」大声で命令を繰り返す。
 視線の先には女子グループがいて、三千男が街野さんを意識していることは伊輪にもわかった
 どうやら三千男は乱暴に振る舞えば女子たちの気を引けると思っているようで、どうしてそんなふうに思うのかは伊輪にはまるでわからなかった。
「やめてよ」
 バタつかせる足を強引に押さえ込まれ、靴下を脱がされた俊貫はついに抵抗の言葉を口にした。
 嫌がる俊貫を見て、男子たちの笑い声はいっそう大きくなった。
「次はズボンだな」
 そう言って三千男は靴下を窓から投げ捨てた。
「やめてお願いだから」
 俊貫の声に涙が混ざり始めた。助けを求めて教室中を見回す俊貫と目が合った。真っ赤になっていて今にも泣き出しそうだ。伊輪はポケットに入れた手をぐっと強く握った。
 どうすることもできなかった。なんとかしてやりたいけれど、なんとかしたら今度は伊輪が攻撃の対象にされてしまう。
 伊輪はリュックを背負い直した。家に帰ろう。ここにずっといて俊貫が攻撃されるのを見続けるよりは、さっさと帰ってあとのことは知らないほうがいい。見ていなかったのだから助けられなくてもしかたがなかったと、せめて自分を納得させられる。
「先生呼んでくる」
 その場を離れようとした伊輪の耳に、囁くような微かな声が届いた。街野さんだった。女子たちが互いにそっと目配せをしている。
 伊輪は教室から出ようとしたところで立ち止まった。背中につうっと嫌な汗が流れる。
 先生に叱られたあと、三千男が怒りの矛先をどこへ向けるかわからない。俊貫や伊輪への攻撃がひどくなるかもしれなかった。
 それどころか、もしも先生を呼んだのが街野さんだとバレたら。
 さすがに直接仕返しすることはないだろうけれど、街野さんに嫌われたと感じた三千男が、やけになって街野さんの嫌がりそうなことをあれこれ始めるかもしれない。
 ダメだ。とにかく街野さんに先生を呼んでこさせちゃダメだ。
 伊輪はすっと振り向いて教室の中に体を向けた。そのまま数歩だけ教室の中を歩いてから大声を上げる。
「俊貫、きゃりろ」
 喉がひっくり返って上手く声を出せなかった。すぐそばで女子がぷっと吹き出す。
「俊貫、帰ろう」
 こんどは上手く言えたものの、自分でも恥ずかしいくらいに声が震えていた。
 教室の後ろで俊貫を取り囲んでいた男子たちが一斉に伊輪に顔を向けた。全員の動きがぴたりと止まる。その隙に、俊貫は膝まで下ろされていたズボンをなんとか元の位置へ引き上げた。
「は?」
 三千男が例の声にならない声を出す。
「こいつは今オレたちと遊んでんだよ」
「ねえ俊貫、帰ろうよ」
 それには答えず伊輪は同じ言葉を繰り返した。会話をするつもりはなかったし、三千男を見たら怖くて何も言えなくなってしまいそうだったので、伊輪は俊貫だけに視線を向けてしっかりと見つめた。あとは視界の端でぼやけていればいい。
「は?」
 三千男は腰掛けていた机からひょいっと跳ぶようにして立ち、教室の中央に一歩足を進めた。殴られるかもしれない。伊輪は足がすくんでそれ以上は前に進めずにいる。膝の下がガクガクと震えていた。
「俊貫、お前、オレたちと遊ぶより伊輪と帰りたいのか?」
 ゆっくりと振り返った三千男は何の感情もこもらない淡々とした口調で聞いた。
「え?」
 俊貫の口がぽかんと開いたままになる。
「お前さ、帰りたいなら帰ってもいいよ」
「え?」
 三千男がいったい何を考えているのかわからず、俊貫の目がキョロキョロと忙しなく動いている。
 それまで俊貫を取り囲んでいた男子たちも困ったような顔をして、俊貫と三千男を繰り返し見ている。彼らにはわからなかったかもしれないけれど、伊輪には俊貫の気持ちがよくわかった。ここで帰ったら明日からの攻撃がひどくなるのではないだろうか。本当に返してもらえるのだろうか。きっとそう考えているに違いない。
「でもズボンは脱いだままな」
 男子たちがまた一斉に俊貫を羽交い締めにして、ズボンを脱がし始めた。
「やめてください。お願いだから」
 大声で叫ぶが誰も手を緩めようとはせず、ニタニタと笑いながら、わざとゆっくりズボンを脱がそうとしている。
「わかった、わかったら許してください」
 何がわかったのかはわからないが、それまで必死で抵抗して真っ赤になっていた俊貫の顔から不意に色みが消えた。すっと体から力が抜けると、そのままズボンを引き下ろされて、床に座り込んだ。
「もう許してください。渡師の秘密を教えるから」
 そう言って俊貫は泣き始めた。
 俊貫にまっすぐ指をさされた伊輪の全身にぞわぞわっと鳥肌が立つ。人は自分の身を守るためになら、こんなにも簡単に友だちを裏切るのか。伊輪はゴクリとつばを飲み込んだ。
 別に腹が立ったわけじゃなく、あたりまえの事実にただ驚いたのだった。もしも逆の立場なら、自分も同じことをするのだろうなと伊輪は思った。
「へえ」
 三千男は顎を突き出すようにして伊輪を見下ろす。
「おまえ、秘密があるんだ」
 両手でドンっと胸を小突かれた伊輪は、三千男から顔を背けて肩をすくめた。
「ほら、言ってみろよ」
 三千男はニヤリと笑ってから俊貫のそばにしゃがみ込む。
「渡師は定規を使ってゲームをしているんだ」
 誰の席かはわからないが、俊貫は机の中をまさぐって定規を取り出した。
「これで」
 片目をつむって定規を目の前にピンと立てた。そうして例のゲームについて、あの伊輪だけの個人的な秘密のゲームについて、しどろもどろになりながら説明を始めたものの、もともと本人がそれほどよくわかっていないのだから、上手く説明できるはずがなかった。
「わけがわかんねぇよ」
 三千男は不満そうに口を歪め、片手を大きく振って俊貫の手を払いのけた。定規が弾け飛んで遠くの床に落ちる。
「おまえが何を言ってんだかぜんぜんわかんねぇ。なんで三つの点なんだよ。え?」
 しゃがみ込んだまま吐き捨てるように言って顔を伊輪に向けた。
「二つ点を直線でつなぐのは簡単だから」
 ぼそりと答える。
「はあ?」
「二つ点を一番短くつなげるのは直線なんだよ」
「うるせぇ。わかんねぇんだよ、バカ」
 三千男はのっそりとした動きで立ち上がった。ゆっくりと体を左右に揺らしながら伊輪に近づいてすっと止まる。
 ガシャン。
 いきなり大きな音を立てて机を蹴った。蹴られた机が倒れて隣の机にぶつかり、さらに大きな音が教室の中に響く。
「それの何が秘密なんだよ」
 ガシャン。もう一度机を蹴る。
「その、その線が、直線が街野さんの机を通ったら点が入るから」
 俊貫の声にはどこか媚びるような甘え声の成分が含まれていた。今この瞬間だけでも三千男の機嫌をとって攻撃の対象から外して欲しいと思っているのだろう。
「へえ。そうなのか」
 細かなルールはわからなくても、どうやら街野さんが得点にかかわるゲームだとは三千男も理解したようだった。薄気味悪い笑みを顔に貼り付けて伊輪の耳に顔を近づける。
「おまえ、街野さんが好きなんだろ」
 三千男が馬鹿にした口調でへヘと笑うと、ほかの男子たちも慌てて一斉に笑った。
「え? どうなんだよ?」
 伊輪の体が硬直する。自分では力を入れているつもりはないのに、全身の筋肉がギュッと縮んで痛かった。
 男子たちはニヤニヤ笑っている。体も小さくたいして運動もできない伊輪が街野さんを好きだなんてお笑いでしかない。
 三千男が街野さんを好きなのは、わざわざ誰も言わないけれどみんな知っている。たぶん自分を強く見せたくてやっているのだろう。教室に街野さんがいると三千男の声は大きくなるし、乱暴な振る舞いも増えるのだった。
 けれども街野さんが三千男をどう思っているかは、少なくとも伊輪にはよくわからなかった。体育の授業では運動ができる子どうしで同じグループになることが多いけれど、普段の教室ではどちらかといえば、街野さんは三千男を避けているように見える。
 さっきだって先生を呼んでこようとしたくらいなのだ。
 三千男は伊輪の顎をつかみ、無理やり自分の方へ顔を向けさせた。
「答えろよ」
 暗く濁った目をしていた。その目は伊輪がどう答えるかをとっくに決めつけているようだった。なんでも自分の思い通りにならないと気がすまないのだ。
「好き、だよ」
 伊輪はまっすぐに三千男の、その暗い目をのぞき込んだ。ポケットの中では痛いほどきつく握った拳がブルブルと震えている。
 教室の前で固まっている女子グループを目の端でチラリと見た。どうやらみんな目を丸くしているように見えたが、街野さんの表情だけはよくわからなかった。
「はあ?」
 伊輪の返事が予想外だったのか、何かに怯えたような冷たい色が三千男の瞳に浮かんだ。狭い額と眉間に深い皺が寄る。
「マジかよ」
「僕は街野さんが、好きだ。でも、それって俊貫と関係ないじゃん」
 伊輪の顎をつかんだ三千男の手にぐいと力が入った。もうどうにでもなれ。殴るなら殴ればいいさ。僕は言いたいことを言うだけだ。
「丸古君は、本当は自分が街野さんを好きなくせに、なんで僕に聞くの?」
「ああ?」
「丸古君だって街野さんが好きなんでしょ」
 三千男の顔がだらしなく緩んだ。どうやら伊輪の言うことが理解できていないらしい。
「ふざけんな、好きじゃねぇよ、あんな女」
 一瞬、教室の中にざわめきが広がり、すぐに収まった。
「よかった。じゃあ僕が街野さんを好きでもいいよね」
 恐怖に膝をガクガクと震わせたまま、それでも伊輪はできるだけ明るい声を出した。やがて、伊輪の顎をつかんでいた手がふっと離れた。三千男がぼんやりとしている。
「ほら、俊貫、帰ろう」
 あっけにとられている男子たちの間に分け入って、片手を差し出す。
「でも俺は」
 涙でぐちゃぐちゃになった顔を伏せている俊貫の手を強引につかんでグイッと引き起こした。俊貫は伊輪の手を強い力で振り払った。勢い余った手が椅子の背に当たってバチンと嫌な音を立てた。
「帰ろう」
 男子グループの輪をすっと抜け出した伊輪は、しっかり背筋を伸ばし、教室の前に向かって歩き始める。後ろから俊貫がついて来ているかどうかはわからなかったし、それはもうどっちでもよかった。

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