責任の取りかた
illustrated by スミタ2022 @good_god_gold
厨房に入ろうとした瞬間、背後から荒々しい声が聞こえて茂禄子は思わず振り返った。
満席の店内が水を打ったようにしんと静まりかえっている。休日の午後はファミレスのかき入れ時で子連れだって多いのに、普段はうるさく騒ぎ続ける子供たちもみんな声を潜めていた。
「ふざけてんじゃねぇよ」
荒っぽい大声だけが店内に響き渡る。
「すみません」
もう一人のアルバイト、彩が一人の男性に向かって何度も頭を下げていた。
まだ三月だというのに、男は薄っぺらくやたらと派手なアロハの胸元を大きく開けている。襟元には金色の太い鎖が見えていた。
「すまねぇだろ。何で俺のあとから店に入ったこいつらに」
男はそう言って隣のボックス席にいる家族連れを顎で差す。
「俺より先にメシが出てんだよ」
「申しわけありません。お料理によってお出しする順番が前後することがございまして」
彩はマニュアル通りの答えを口にした。シンプルかつ正確。茂禄子にだってそれ以外に言えることはない。アルバイトにできることなんて限られている。
「なあ、あんたら。俺よりあとに店に入ったよな?」
アロハ男は隣のボックスにぐいと体を寄せ、仕切り板の上から家族連れを覗き込むと、じっくりと目で舐め回した。
「なあ? 俺よりあとだったよな?」
「え。あ、はい」
父親らしき男性が、男とは絶対に目を合わせまいと、正面を見つめたまま軽く頭を下げる。
「ほらみろよ。証人だっているんだよ。え?」
「たいへん申しわけありません。ですが、ご注文いただいたお料理によってお出しする順番が」
「コーヒー」男は言葉を投げ出すようにぽつりと言った。
「はい?」
「コーヒーだよ? 俺が頼んだのは?」
「あ、はい」
「これってさ、前後するような注文か? ああ?」
そう言って彩の顔を下から覗き込む。
「すみません」彩の謝罪に涙声が混ざり始めた。
「責任者を出せよ、こら!」
茂禄子は厨房の中にすっと目をやった。店長の木寺が慌てたように布巾で手を拭いている。目が合うと木寺はぐっと力強く頷いた。どうやら表に出てくるらしい。茂禄子はホッとした。ここまで拗れたらアルバイトでは責任が取れないから、権限のある社員さんに任せるしかない。
「お客様」
木寺はほとんど足音を立てることもなく、すっと店内を移動して明るい口調で男性に話しかけた。
「なんだよ、あんた?」
「当店の店長、木寺でございます」
「ふん、店長か。あんたのところの従業員はどうなってんだ? え?」
「どうもこうも、普通に働いております」
木寺はニコニコしながら明るく答える。
「そんなこと聞いてねぇよ。教育はどうなってんだって言ってんだよ。俺の時間をどうしてくれるんだよ? ああ?」
男の顔にさっと朱が差した。首には青い筋が浮き上がっている。
「けっ。わかんねぇヤツだな。お前の責任だろ。だったらそれを形にしろって言ってんだよ。わかるだろ、責任だよ、誠意だよ」
男はニヤニヤ笑いながら、胸の前に突き出した拳の人差し指と親指を擦ってみせた。
「ですが、そう言われましても。お料理をお出しする順番には」
「うるせぇな。お客様は神様なんだろうが? え?」
急に大声を張り上げた男をしっかり見つめながら、木寺はゆっくりと首を傾げた。
「お客様は神様、ですか」
「そうだよ。俺は神様なんだよ。だからさっさと神に従えよ」
それまでしんと静まりかえっていた店内がざわつき始めた。客たは、ひそひそ声で何かを話している。やがて、ざわめきが大きくなった。
突然、カウンターの客がくるりと向きを変えてスツールから降りた。そのまま一歩、アロハ男に近づく。
「あのう、神様。実はご相談があるのですが」
「は?」男の眉間に皺が寄った。
「だって神様なんですよね?」
「いや、それは」男は後ずさる。
「ご相談に乗っていただきたいのですが」
「すみません、神様」
奥のボックス席でも一人、女性客が立ち上がって手を上げていた。
「ちょっといいですか?」そう言いながら男に向かって歩き始める。
「神様、私もお願いが」
「あ! こっちもお願いします」
あちらこちらで客たちが立ち上がり、次々に手を上げた。
「なんなんだ、お前ら」
「だっておじさん、神様なんでしょ?」
小さな女の子が男の足元から見上げるように聞いた。
「ちがう、俺は神様なんかじゃねぇよ」
「えっ?」
木寺は驚いた声を出し、再びゆっくりと首を傾げる。
「あれほどはっきり神様だと仰ったのに?」
カウンターの男がアロハの袖を摑んだ。
「待ってください。今さら言い逃れをしようったってそうはいきませんよ」
「そうですよ。あなた神様なんでしょう?」
「だから違うって言ってるだろうが!」
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