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こいびと

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 いきなり背後でキュッキュッと二回鳴った甲高い音はすぐに長いサイレンに変わった。回転する赤いランプの光がバックミラー越しに目に入り、井間賀は首筋に冷たい鈍器を当てられた気がした。
「青いワゴン車、路肩へ止まりなさい」
 スピーカーから放たれたノイズまみれの声が、まっすぐ車内へ飛び込んでくる。
 自分のことではないと知らんぷりを通したかったが、他に走っている車はないし、こうはっきりと色まで言われてしまっては、気づかないふりもできなかった。
 いつもこの国道を通るときには気をつけているのに、今日に限って気が緩んでいたのだ。諦めるべきだとの思いと諦めきれない気持ちが胃の中で混ざり合い、体の芯がひんやりと冷たくなる。井間賀は溜息とともにウインカーを点灯させた。

「はい。何キロ出てたかわかってる?」
 窓から顔を差し込むようにして警官が偉そうに言った。忙しなく開け閉めしている口の周りには、数本のヒゲがみっともなくダラリと下がっている。
 覆面パトカーの警官はいつも横柄なのだ。自分たちがこそこそと隠れて取り締まっているのが恥ずかしいのだろう。その恥ずかしさを誤魔化すために偉そうに振る舞っているのだ。
「えっと、三十キロくらいですかね」
 グローブボックスから車検証を取り出しながら井間賀は言った。どうせ何を言っても無駄だとはわかっているが、それでも一応は言い逃れをしてみる。
 警官は制帽で隠れそうになっている大きな目をギョロリと井間賀に向けた。
「八十六キロだよ。わかってんの? もし事故が起きたら危ないだろ?」
 呆れたような口調でそう言うものの、あくまでもポーズで言っているだけで、事故の心配などしていないことは井間賀も警官自身もよくわかっている。
「すみません」井間賀は頭を下げた。
 そのスピードで危ないのなら、後ろからやってきて追いついたパトカーは危なくないのかと反論してもいいのだが、余計なことを言えば言うほど解放されるまでの時間が延びるだけだから、さっさと済ませるに限る。
「はい、免許証。さっさと出して」
 井間賀は窓越しに無言で免許証を渡した。
「ん?」免許証を覗き込んだ警官が妙な声をあげる。
「あれ? あんた何? こいびとじゃないの? おーい、ちょっと来てよ」
 警官はパトカーに乗っている同僚に向かって顔を振った。
「僕はこいびとですよ」
 井間賀は警官を見ることなく、まっすぐ正面を向いたまま憮然と答える。目を合わせるつもりはなかった。どうせ言われると思っていたのだ。どこでも同じことを聞かれる。
「いや、でも普通、こいびとってのは上半身が鯉で下半身が人間だろ? でもほら」
 パトカーから降りてきたもう一人も物珍しげに車の中を覗き込んでくる。
「へえ、あんた逆なのかあ」
「あのう、普通って何ですか?」
 井間賀はゆっくり首を回して警官たちを睨み付けると、できるだけ低く落ち着いた声を出した。
「上半身が人間で下半身が鯉だと普通じゃないんですか? 異常なんですか?」
「いや、別にそういうわけじゃ」
 警官が急に慌てた口調になる。制服の隙間から見える首回りでは、エラが忙しなくパタパタと開いたり閉じたりしていた。体の模様は白地に赤と黒の斑文だからおそらく元は錦鯉だったのだろう。いわゆる錦崩れってやつだ。
「あなたたちはそうやって、見た目でこいびとか、そうでないかを判断するんですね」
 井間賀はそう言ってから、冷たい笑みを浮かべる。
 面倒くさいことになったとでも言いたげな顔つきで、警官たちが互いに目配せをした。
「なるほどね。公務員が外見で差別するんですね」井間賀はさらに言葉を重ねる。
 警官たちのヒゲがぴょんと跳ね、目がクルクルと回った。エラの動きが激しくなる。
「いや、これは申しわけない」
 あとからやって来た警官が神妙な声で詫びた。鈍い鉛色の鱗が重なり合ってガサと音を立てた。
「そういうつもりじゃないんだよ」
 免許証を持った錦崩れの警官は不貞腐れたように井間賀から目をそらした。
「こいびとにだっていろいろいるんです。警察なんだからそれくらいわかっていて欲しいですね」
 警官ほど偏見に満ちた存在は少ない。彼らは、自分たちと少しでも外見や習性が異なっているものを見つけると、すぐに外来種扱いをするのだ。
「失礼しました」
 錦崩れがポツリと言った。口の中にチラチラと見える歯はかなり鋭い。これ以上は怒らせないほうがよさそうだった。あれこれ理由をつけて噛まれたら終わりだ。
「もういいです。僕は慣れているから構いませんけど、他のこいびとにはもっと気をつかってくださいよ」
 井間賀はふうと鼻から長く溜息を吐いた。

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