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紙の上

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 ガタリという音が耳に入って古庄敏夫は顔をあげた。それまで読んでいた文庫本を机の上で静かに閉じる。窓から差し込んだ夕日が、教室の中を薄赤く染めていた。
 音を出したのは同じクラスの能雅風介だった。二人が揃ってバスケ部にいた中学時代には、登下校のときまでいつでも一緒にいたが、高校では風介が陸上部、敏夫が美術部に入ったので、今は放課後に顔を合わせることも少ない。
 風介は教壇の上で仁王立ちになっていた。黒板の上にかけられた質実剛健と書かれた墨書が僅かに揺れている。
 呆気にとられた敏夫を睨みつけるようにしながら風介は左手を腰に手を当てた。なぜ風介がこんなことをしているのか敏夫にはわからない。いやわかっているが、わかりたくない。
「今日は部活、休みなのか」
 どうでもいい質問が敏夫の口から出た。別に聞きたかったわけではない。なぜそんな質問をしたのか。敏夫には薄々わかっているが、そのことはあまり考えないようにしている。風介は敏夫の質問を撥ね退けるように胸の前で大きく手を振った。ぐいと腹に力が入るのがわかった。入学して半年の間に背が伸びたのか、制服の裾がずいぶん短くなっていた。
「いいか、敏夫。部活のことなんてどうでもいいんだよ。俺が街野さんのことを好きなのはお前だって知ってるだろう。バスケ部の街野さんだよ。中学の時から好きだったから、本当は高校でもバスケ部に入っていれば同じ体育館で練習できたはずなのに、お前がバスケ部に入らないって言うから、だったら俺もバスケ部に入らないでおこうって思って陸上部に入ったけど、陸上部の練習はグラウンドなんだよ。体育館で練習する部活だったら、きっと練習の合間に街野さんをチラチラ見られたのに、グラウンドで練習していたら街野さんのことなんて見られやしないじゃないか。どうすりゃいいんだよ。みんなは街野さんのことをそんなにかわいくないって言うけど、ああ言う感じの子を俺は可愛いと思うし、ちょっと背が高めなのもいいし、付き合いたいし、でもどうやったら付き合えるかわからないし、だけど好きなんだよ。どうしたらいいんだよ俺は」
 風介は一息にそう叫んだ。
 じっと風介の叫びを聞いていた敏夫は、ふう、とため息をついた。
「長い」そう言った。
「え?」
「風介、お前の今のセリフ、長すぎるよ。いったい何行使ってるんだ」
「何行ってどういうことだよ」
「あまり長いと読者が飽きるだろ」
「そんなこと知るかよ。じゃあどうしろってんだ」
「そうだなあ」敏夫は机の上の文庫本を足下の鞄に投げ込んだ。
「少し、といっても、まあそんなに少しじゃなくてもいい。何となく二、三行くらい話したところで」そう言って両腕を体の前で左右に広げる。
「こまめに体を動かすといいんじゃないかな。そうすれば、地の文が挟まって、多少は読みやすくなるような気がするんだ」
 敏夫はニコリと笑った。
「ほら、こんなふうに」
 ひょいと片足で弾んでみせる。
「で、またこんなふうに」
 今度は手を叩いた。
「細かく動作を挟めば、たぶん長いセリフも飽きずに読んでもらえるだろう」
「ちょっと待てよ、敏夫。お前さ、そんなこといちいち考えて話してるのかよ」
「うーん、正確に言うと考えてるのは俺じゃないんだけどね。とにかくセリフの間に動作を挟んだほうがいい」
「いや、ちょっと待ってくれ。だってあさ、街野さんのことが好きだっていう俺のどうしようもないこのモヤモヤした気持ちを、そのモヤモヤした感覚も含めてそのまま伝えようと思ったら、どうしたって切れ目のない長いセリフになると思うんだよ。いや、むしろ長いセリフのほうが、俺の気持ちは伝わると思うんだ。いちいち動作なんて考えて挟んでいられるかよ。それに、今の俺にとって一番大事なのは、街野さんが俺のことをどう思うかであって、読者のことなんて俺には関係ないだろ」
「ほらまた長くなってるぞ。ちゃんと読者のことを考えなきゃ」
 敏夫が指摘すると風介は険しい顔になった。
「でもさ、気がついたら長くなってるんだよ」
「そうか」敏夫はゆっくり椅子から立ち上がり窓に近づいた。思い詰めたように首を振る。
「なんで俺はこんなにセリフが長くなるんだろう」
 風介も教壇からふわりと飛び降りて敏夫に並んだ。
 山の向こうに赤い太陽が沈もうとしている。シルエットになった山は黒々と空に突き刺さる鋸歯のようだった。
「ぜんぶ作者のせいなんだよ」敏夫は遠くの山を見つめたまま静かに言った。
「作者?」
「そうだよ」
 そう言って敏夫は暗くなり始めた空を指差した。すでに一番星が輝きはじめている。
「ほら、あれをよく見ろ」
 風介は目を細くして空をじっと見つめる。縦横に交差した薄く細い線が碁盤の目のように空を覆っているのが目に入った。
「なんだよ、あれ」
「原稿用紙だよ」敏夫はそう言って鼻からふっと息を吐いた。
「作者はあの上にいるんだ」
「原稿用紙の上?」
「そうだよ」敏夫は肩をすくめる。
「あんなに遠くから、俺たちを好きに操っているって言うのか」
「いや、それほど遠くでもない」
 敏夫はニヤリと何かを企んでいる顔になった。
「俺たちは原稿用紙の中にいるんだ。どんなに空が高く見えてもそれは紙一枚の中に書かれているだけのことだからな」
「紙一枚の中」
「そうだ。だから作者と俺たちとの距離は紙一枚分ってことだ」
 そう言って敏夫はいきなり窓の外の空へ向かって両腕を伸ばした。
 水の中に手を入れるように敏夫の手が頭のすぐ上の空間へすっぽりと消えていく。
「うわあ、なんだよ、なんだよそれ」
「よし!」
 風介の動揺を気にすることなく敏夫は真剣な眼差しのまま、空中に消えた腕を動かしたあと、いきなり全身に力を入れて腕を引き下ろした。
 ドサッ。
 敏夫の腕と同時に一人の男が空中から現れ、そのまま教室の床へ転がった。奇妙な幾何学模様の入ったゆったりとした着物を着ている。
「痛たたたたた。何を、何をするんだ、君たちは。私を誰だと思っているんだ」
 男は顰めっ面で体のあちらこちらを摩っている。
「あんたが作者だろ」
 敏夫は男に近づき、そばにすっくと立った。
「そうだ。私が作者の丸古だ」
 男は床に座り直し、はだけた着物の前を合わせた。
「私はお前たちの生みの親だぞ。もっと丁寧に扱いなさい」
「うるせえよ。勝手なことばかりやらせやがって。あの長いセリフを喋るの、たいへんなんだぞ」
 風介はそう言って丸古の臑を軽く蹴った。
「痛ッ。痛いじゃないか。この乱暴者が。この不良が」
「あのさあ」風介は丸古にすっと顔を近づけた。
「作者ってことは、俺と街野さんをくっつけることもできるのか」
「当たり前だ。お前たちは私の思うがままに動くんだからな」
 丸古は得意げな顔つきになる。
「だがな風介。お前は街野さんとはくっつかないのだ。私がくっつけないからな」
「なんでだよ。つきあわせてくれよ」風介の目が大きくなった。
「ふひひひひ。そういう話じゃないのでね」
 そう言ってゆっくり立ち上がった丸古は、パンパンと着物の汚れを手で払い落とし、近くの椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、どういう話なんだよ」
「街野さんは敏夫が好きになるのだよ」
「なんでだよ」風介の顔が怒りで赤くなっていく。
「ちょっと待ってくれ。俺は街野さんのことは何とも思ってないぞ」
 敏夫が怪訝な表情を見せた。
「ところがだ、街野さんから告白されたお前は風介のことを気にしつつもだんだん街野さんが好きになるんだ」そう言って丸古はニヤリと笑う。
「敏夫。お前ひどいじゃないか」
 風介が敏夫を睨み付けた。
「いや、俺は何もしてないって」
「ふはははは。まだ書いていないからな。これからだ。お前たちが揉めるのは」
「なんでそんなややこしいことにするんだ」
 敏夫は丸古の目の前にある机にパンと両手を叩きつけた。
「そのほうが盛り上がるからに決まっているだろうバカ者が」
 丸古は敏夫の鼻に指を突きつける。
「いいか。恋愛はな、三角関係にしないと読者の期待が高まらんのだ」
「俺たちの気持ちはどうなるんだよ」風介が声を荒らげる。
「そんなことは知らん」
「だって俺たちの生みの親なんだろ」
「そうだ。だからお前たちをどうするかは私のかってなのだ。わははははは」

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